『期限、あれこれ』

 六月十三日(日曜日)、私には焼が回っている。目覚めて寝床の中で私は、こんなことをめぐらしていた。食品には賞味期限や消費期限などの記載がある。機械類には耐用年数という期限がある。枯れる植物には、一年生植物(一年草)、二年生植物(二年草)、そして多年生植物(多年草)という期限がある。そして人の命には、寿命という期限がある。この世の物事にあって耐えられる期限は、ことごとく有限である。もちろん期限までに届かず、途中で腐ったり、壊れたり、枯れたり、かつ人の命であれば失くしたり、亡くなったりすることなど多々ある。とりわけ、人の命にかぎればあまりにも無常ゆえに、このことには意図してあっさりと、「運命」という虚しい言葉が添えられている。すなわち、生きとし生きるもの、ほか森羅万象にわたり、あらかじめ想定された期限に背く現実を有している。目覚めたのちとはいえ、こんなことが浮かぶようではもとより、望む熟睡にありつけるはずはない。おのずからこれらのことが、私に焼きが回っている確かな証しである。
 私は常に心中に何らかの語彙(言葉と文字)を浮かべている。それは、語彙の生涯学習を掲げているゆえである。目覚めてきょうは、期限という言葉が心中に、ぐるぐると回っていた。確かに、期限とはきわめて安易な言葉である。ところが一方、その現実を突き詰めれば、途轍もない言葉である。まして、人の命の「寿命」をあからさまに「期限」に置き換えれば、言葉の重みにあらためて慄然とするものがある。目覚めて切ない、きょうのわが生涯学習の一端の披露である。
 精神混沌ゆえに、休むべきだったのかもしれない。関東地方にはいまだに気象庁の梅雨入り宣言がない。しかし、夜明けの空は重たい梅雨空である。たぶん、わが重たい気分で眺めているせいにちがいない。こんな駄文には表題のつけようはない。しいてつければ駄文の証しそのままに、『期限、あれこれ』、しか浮かばない。