ワクチン接種、完結日

 新型コロナウイルスへの感染を免れるためには、私は政府や自治体のさまざまな呼びかけに素直に応じてきた。呼びかけの本源をなすものは、おおむね自らの行為や行動を粛(つつし)むことであり、文字どおり「自粛」の要請である。これらの行為や行動は、いまだ過去形で表すことはできず、今なお現在進行形の渦中にある。私にかぎらず日本国民、さらには日本在住の外国籍に人たち、すなわちだれもが一年半近くにわたり、我慢という自粛を強いられている。それでも今なお、感染を抑え込む決め手にはありつけず、すべての人々は日々感染に慄(おのの)いている。
 新型コロナウイルスは、すでに多くの感染者とそれによる死亡者をもたらして、現在なおこの先、恐々とするありさまである。この恐ろしい状態は、戦時模様にさえ擬(なぞら)えている。それゆえに、新型コロナウイルスに抗するのは、日本の国の国家事情である。いや、限られた対象国同士の戦争とは異なり世界中の国共々に、新型コロナウイルスの感染抑え込みにはまさしく、確かにいくらか似つかわしい戦時状態を呈している。
 抑え込みの施策は、これまた世界の国々共通に、個人に課されている行為や行動の自粛が大本(おおもと)となっている。このため効果は遅々たるものであり、そのため人類すなわち世界の人々は、新型コロナウイルスに抗するワクチン開発に望みをかけてきた。そして人類の知恵(者)は、驚くべき速さでこの望みを叶えたのである。いまだ途中経過とはいえ、人間の知恵(者)の輝く勝利である。なぜなら、ワクチン接種の先行の国々や人々は、ワクチン接種の効果で、段々と自粛の無い元の生活に戻り始めている。
 ワクチン接種が遅れた日本の場合は、現在はいまだ効果にはありつけず、現在は政府および自治体こぞってのワクチン接種作業に大わらわの状態にある。ワクチン接種は、まさしく国家事業である。おのずからこれには逆らえず、私の場合はきょう(六月十日・木曜日)が、完結編の二回目のワクチン接種日である。ワクチン接種の効果があらわれるのは、この先になるけれど、自粛の行為や行動は晴れて少しずつ解禁されそうである。
 きょうのワクチン接種にあって私は、関係者にたいしマスク越しに大きな声を出して、お礼の言葉を述べるつもりである。「声を出してはいけませんよ!」と、咎(とが)められることなく、マスクの上の額(ひたい)には、ほほ笑まれる表情があらわれるであろう。言うなればきょうは、見知らぬ者同士がマスク越しに、ほほ笑む日になりそうである。
 生存、いや人間、「捨てたものではない」。加齢の身に訪れた、ひとときの「人間賛歌」の享受日になりそうである。