無能力の祟り

 六月九日(水曜日)、やはり再始動はおぼつかない。三時間足らずの睡眠ののちに目覚めて、その後は二度寝にありつけず、三時間余りを悶々と体を寝床に横たえていた。この苦悶に耐えきれず、起き出して来た。そして、やおらパソコンを起ち上げている。何たる体たらくぶり! かと、自分自身にたいしひどく、悲憤慷慨をおぼえている。こんな文章を書くとは予期しないどころか、いや文章と言える代物ではない。もちろん、気分鎮めにはちっともならず、恥晒し、いや恥の上塗りを招いている。そうであれば書かないことに、越したことはない。まして、投稿ボタンを押すことなど、狂気の沙汰である。そう自認してもおそらく、私は投稿ボタンを羽目になるだろう。なぜなら、確かに文章の体をなさなくても、せっかく書いたものを反故にすることは、現在の私にとってはきわめてもったいないからである。私の場合、それほどに頓挫したあとの再始動には困難を極めている。
 これまでの私は、どれほど多くの文章を書いてきたことだろう。大袈裟な表現を好む私にすれば、四百字詰め原稿用紙に換算すれば多分、軽トラの積載量制限をはるかに超えて、なおあふれ出すほどにもなるかもしれない。まさしく、屑やゴミさながらの駄文の重ねである。なぜなら、いっこうに学習にはなり得ず、挙句に私は、こんな身も蓋もないみっともない文章を書いている。直近の文章の二番煎じの表現を用いれば、私はまさしく「惰性の美学」を損ねた祟りに喘いでいる。だけど嘆くまい、いやトコトン嘆こう! わが無能力の証しであり、祟りである。
 夜明けて、梅雨入り宣言間近の朝日がピカピカと照り輝いている。嘆きの気分は、いくらか解れている。やはり、もったいないから投稿ボタンに人差し指をかけて、駄文は店じまいである。駄文をつづり、人様にはかたじけない。いやいや、自分自身にもほとほと、忝(かたじけな)い。こんな文章を書くようでは、もちろん再始動のエンジンには、今なおありつけないままである。