「惰性の美学」を損ねた祟り

 このところの私は、闘わずして自分自身に負けている。すなわち、克己心をすっからかんに失くしている。惰性という継続をみずからの怠け心で断ったのちの再始動には、ほとほと困難を極めている。もちろん、これまでも何度となく体験してきた厄介事である。
 「ひぐらしの記」の継続は、もちろん人様から褒められるものではない。なぜなら、単なる惰性の積み重ねであることを私は、絶えず強く自認してきたところである。人間の営みにあって惰性は、必ずしも褒められる行為ではない。ところが、私にかぎれば惰性は、必要悪を超えて継続の本源を成してきた。言うなれば私は、惰性にすがって「ひぐらしの記」の継続にありついてきたのである。
 電子辞書を開けば『惰性』には、「今までの習慣」という説明書きがある。すると私は、ようやく根づきかけていた習慣をわが怠惰心で、無下に反故にしたのである。その祟りにあって現在の私は、再始動に怯えて苦悶を強いられている。すなわち今の私は、「惰性の美学」をみずからほうむった罰当たりをこうむっている。こんなことはどうでもいいけれど、六月七日(月曜日)、私はまったく久しぶりに昼間にあって、こんな文章を書いている。
 窓ガラスを通して眺める山の法面には道路に沿って、今こそ見頃! とばかりに、アジサイが妖艶に色づいている。その後衛をなすところは園芸業者の植栽であり、もとは商売用の枇杷の木が売れ残り、今や枇杷の実が鈴生りとなり、黄色ピカピカに輝いている。これらの光景に見惚れていると、萎えていた克己心にいくらか、カンフル剤が打たれた気分である。昼間の文章からさずかった、ちょっぴりのプレゼントである。しかしながら継続の糧(かて)になるには、もとよりまだまだ心もとない。