私信

 先ずは掲示板上において、私信をしたためることをお許しください。本来であればいただいたお便りにたいする返書は、謹んで手紙などですべきこととは重々(じゅうじゅう)理解しています。このことでは現在したためている文章は、手抜き文として大きなお咎(とが)めをこうむらなければなりません。だから恥じ入りて、冒頭にて謝りとお詫びをさせてください。
 まったくの私信でありながら掲示板を利用していることでは、お相手の方が毎日、掲示板を覗いてくださっていることを、お便りに書かれていたからです。そのことに甘えて私は、確かに手抜きと自覚しながらも、はがきや手紙にかえて、返礼文をしたためているところです。このことを私は、お相手の方そしてご常連の読者各位様にたいし、あらためてご寛容とお許しを切に願うものです。
 おはがきをいただいたお方、すなわちお相手のお方を事前のお許しを得ないままにご紹介させていただきます。そのお方は現在、三重県にご在住のお方です。これに加わるご紹介は、現代文藝社と「ひぐらしの記」の取り持つ御縁としか、私は知ることができません。そのことより見ず知らずにもかかわらず、それでも手間暇をかけて、おはがきをくださったことには、そのお方のお人柄が偲ばれるものです。この文章を借りて、重ねて感謝と御礼を申し上げます。心中より謹んで、ありがとうございます。
 さて、まことに身勝手ながらおはがきのなかの二か所の文章を原文のままに、この文章に転載させていただきます。一つは、毎日欠かすことなく現代文藝社の掲示板を拝見し、前田様の文章に接することで元気と勇気を頂戴している次第です。前田様の文章から、「継続は力なり」という格言を思い出します。一つは、前田様は一体どのような高校生でしたか? そのあたりのことを掲示板で読んでみたいです。さてさて一つ目は、この上ない喜びにさずかり、重ね重ねて御礼を申し上げます。
 そして、二つ目こそ、この私信をしたためている唯一無二の理由です。なんら、特長とすべきところのない高校生時代だったゆえに、返事には梨の礫(つぶて)こそ、最良の返事と心得ていました。一方ではわが身に余るおはがきにたいし、無礼のままであってはと、甚(いた)く心を痛めていました。それゆえにわが心痛を鎮めるために、初対面の履歴書代わりに、わが自己紹介のさわりを以下に書きとどめます。
 私は昭和十五年(1940年)の誕生で、現在八十歳です。出身地は旧自治体名では、熊本県鹿本郡内田村(現在山鹿市菊鹿町)です。生誕地内田村は、熊本県北部に位置する山あいの盆地で、すなわち農山村産品の上がり、いや自給自足に生業(なりわい)を託する鄙びた片田舎が原風景です。当時の小学校および中学校は、校地をほぼ同じくする六年、三年つごう九年間、持ち上がりの村立内田小学校、そして村立内田中学校でした。現在は、ご多分にもれず過疎化のあおりを食って閉校を余儀なくし、両校名共に思い出の彼方に飛んでいます。中学校を出て高校進学を希望する者は、ひと筋の県道を約二十キロ(五里ほど)自転車で下り、普通高校として町中に一校存在する、熊本県立鹿本高校へ通うしかほかはありませんでした。鹿本高校は今では校地をさらに遠くへ移して、同じ校名で今も存在しています。
 さて、小学校および中学校時代の学業は、片田舎の学校に加えて、戦後からまもないころゆえにその貧弱さは、言わずと知れるところです。私は6・3・3・4の学制発足年の昭和二十二年四月に、小学校一年生として修学の身を始めています。小学生時代はさておいて、中学生および高校生時代のわが学校生活は、高校および大学への受験準備と部活にほぼ凝縮されています。小学生時代は、すべてが洟たれ小僧の時代でした。中学生になると、部活のバレーボールと、ときたま陸上の対外試合に駆り出されて、それらの練習に明け暮れる毎日でした。塾など、あるはずもない。これを補うのは、放課後に希望者を募り設けられていた課外授業にすがるだけでした。
 高校生時代もまた私は、中学生時代の延長線上で部活にはバレーボール部に入り、なおいっそう練習に明け暮れていました。おのずからこれまた、大学入試に向けての課外授業は、まったく縁無しになりました。顧みて、今なお悔い残るところです。これらのこと以外記すところはなく、私はただ平々凡々を貪(むさぼ)るだけの典型的な田舎の凡児だったのです。
 最後に、「ひぐらしの記」にかかわることゆえに、文章にちなむことを付記すれば、これまた付け焼刃の六十(歳)の慌てふためく手習いにすぎないものです。なんらとりえの自己紹介は、はなはだ骨の折れる作業です。御好意に甘えてこれでお許しを願うところです。こののちもよろしく、お付き合いを願ってやみません。ご健勝とご清祥を、衷心よりお祈りいたします。謝辞。