人の世は一喜一憂、いや哀憂

 五月十八日(火曜日)、きょうあたり気象庁の梅雨入り宣言かな? と、思えていたきのう(五月十七日・月曜日)の雨はすっかり上がり、見渡す青空から朝日が煌々と輝いている。わが予知は空振りに終わったけれど、嘆くどころかこれ幸いである。だからと言って、すっきりした気分の寝起きではない。この気分はわが生来の悪癖によるものであり、ジタバタしても直しようはない。わが文章はおおむねこんな書き出しであり、なさけなくも自認しているところである。もちろん、身体にも精神にもいいはずはない。「身から出た錆」とは、わがかなしい性(さが)である。みずからでは直したり、抗(あらが)えないことに一喜一憂することなど、これまた心身によくないことは知り過ぎている。いや、こちらは、ほとほと馬鹿げたことである。ところが私は、すでに一年半近くにわたり、新型コロナウイルスにともなういくつかの数値に一喜一憂を強いられている。それには、いやおうなく喜怒哀楽気分がともなっていた。
 実際のところ、この四字熟語の用い方は嘘っぱちである。なぜなら、喜びや楽しみなど、一切あるはずもない。このことでは私は、ほとほと馬鹿な思いに陥っていた。そしてなおこの先、新型コロナウイルスの終息を見ないかぎり私は、この思いから逃れることはできない。
 きのうの全国レベルの感染者数は、週間では数値が最も低く出る傾向にあると言われる月曜日にしても、喜ぶべき低い数値を示した。とりわけ、東西の大都市すなわち東京都と大阪府の感染者数は、様変わりに減っていた。まさしく、一喜すべき数値だった。たちまち、ピークアウト(天井を打った)という、言葉が目立ち始めた。しかし、きょうの数値が伝えられれば、再び一憂に陥るかもしれない。
 きょうの文章はどうでもいい、わが言葉遊びである。いや知り過ぎている四字熟語の実践にすぎない。わが人生行路は、一喜一憂そして喜怒哀楽という、似たもの言葉にさらされて歩んできた。多くは、「喜・楽印」の少ない一方通行の道を歩んできた。いや、私にかぎらず人みな人生とは、おおむねこんなものであろう。きのうの妻のワクチン予約は、感染を怯(おび)える人様の出足に負けて叶わず、ひと月延ばしとなった。憂いや哀しみは、人の世のならいである。