モチベーション

 人間社会には、モチベーション(意欲、意識)の有無あるいは高低という言葉が根づいている。人間が万物の霊長と崇められるのは、生きとし生きるもの中にあって、とりわけ精神や知能を働かすゆえであろう。もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、わが下種の勘繰りである。それゆえに人間の行動や行為は必定、そのときどきのモチベーションに左右される。このことは物心ついて以来こんにちまで、自分自身、何事においてもわがこととして、体験してきたことである。気分の良い日のままごと遊びは楽しく、文字どおり遊び惚けていた。学童になって気分の良い日の宿題や漢字の書き取りは、親に言われることなくみずから進んで飯台(食卓)に就いて、またたく間に済ましていた。おとなになり仕事をするようになっても私は、常にモチベーションにつきまとわれてきた。現在の私は、いっそうモチベーションにつきまとわれている。すなわち、人間ゆえにゆえに絶えずにつきまとうしがらみである。
 だとしたらわれのみならず人みな、モチベーションのしがらみから逃れることはできない。ところがモチベーションには、さきほどの有無や高低に加えて、ずばり良し悪しという、その時々の気分状態が映し出されてくる。おのずからこのことは、きわめて厄介である。なぜなら、その時々のわが気分は、おおむねモチベーションの低下に見舞われている。現在の状態に置きかえれば、私はモチベーションの低下に見舞われている。その証しには、この先、文章が書けない。その挙句、いたずら書きでオシマイである。
 五月十五日(土曜日)、朝日の見えない、どんよりとした大空の夜明けが訪れている。自然界は文字どおり自然体のままである。モチベーションに左右される私には、羨ましいかぎりである。