苛まれ続けるわが心境

 簡易な日本語を用いているにすぎないけれど、凡愚の私にとって書くことは、ほとほと心労きわまりない作業である。そのため、目覚めれば私は、心労の恐怖に怯(おび)えて、もう書きたくない思いに苛(さいな)まれている。一方で私は、この恐怖に負けて書くことを止めれば、たちまち認知症発症の恐れを感じている。つまり私は、日々この両者の鬩(せめ)ぎ合いに晒され続けている。そして、どちらかと言えば前者の思いに強く晒されている。だったら、(書くの、やめればいいだろう)、と声なき声が心中で、絶えず決断を迫っている。確かに、人様の助言にすがることもなく、わが瞬時の決断で済むことではある。ところが、生来のわが性癖(悪癖)の一つには、優柔不断というものがある。幸か不幸かこの悪癖がわざわいして、私は思い及ばぬ「ひぐらしの記」の継続にありついてきた。しかしこの継続も、今や風前の灯(ともしび)にある。きょう・五月十四日(金曜日)、寝起きにあっての隠しようないわが正直な心境である。
 きのう(五月十三日・木曜日)、ほぼ一日じゅう降り続いていた雨はすっかり上がり、胸の透く清々しい夜明けが訪れている。太陽は音なく、外連味(けれんみ)の無い明るい朝日を地上いっぱいに、いや大気くまなくそそいでいる。こんな自然界の恩寵(おんちょう)のなかにあっても私は、こんな身も蓋もない思いにとりつかれている。「みっともない」どころか私は、ほとほと恥じ入る「愚か者」である。確かに、「バカは死ななきゃ治らない」。しかし、これくらいでへこたれて死ねば、生きるために懸命に戦っている、現下の世相に相すまない思いがある。
 確かに、わが「身から出た錆」など、心労の内には入らないであろう。それでも、日々これにとりつかれているのは、わが小器の確かな証しである。そしてこれこそ、後天ではまったく直しようのない悪の根源である。このところの私は、小器の祟(たた)りに見舞われて、常にこんな直しようのない思いに晒されている。この思いは、文章のネタ不足の祟りでもある。やはり、書かずに、休めばよかったのかもしれない。
 朝日が煌々とそそいで、眺望する家並みと遠峰は、反照で光っている。自然界は無償で、私に気分休めの効果覿面の処方箋を恵んでいる。自然界の恵みは、私いや人が、生き続ける喜びをなす一つである。だったら、嘆くまい! いや、嘆けば損である。