五月十日(月曜日)、久しぶりに目覚めが早く、のんびりと電子辞書を開いて、反芻(はんすう)という語句の復習を試みた。実際には今さら復習するまでもない、子どもの頃より見聞きして、知り過ぎている語句である。
『反芻』①一度のみこんだ食べ物を再び口中に戻し、噛み直して再びのみこむこと。典型的にはウシ目(偶蹄類)の哺乳類が行う。②二度三度くりかえし思い、考えること。
前者についてはわが家の牛で、しょっちゅう見ていた。牛は日がな一日、口を動かしていた。このとき私は、反芻という言葉(語句)を学んだ。しかしこの語句に、こんなにも難しい漢字をあてることなど、当時は知るよしなかった。こんなにも見慣れない漢字は、今でも漢字テストでは書けないであろう。確かに、電子辞書にかぎらず紙の国語辞典をひもといて、なんども書き取り練習をくりかえしても、覚えきれそうもない。ほとほとなさけない、わが脳髄の劣等である。
さて、必ずしも当を得ないけれど私は、実際のところは②の意味になぞらえて、反芻という語句のおさらいを試みたのである。それは、大袈裟好きのわが性癖の証しでもある。私は「寝ても覚めても」、心中にとりとめなく浮かんでくる語句をめぐらしている。もちろん、寝床の中で眠りこけているときには浮かべようはない。いやこのときは、常に悪夢に魘(うな)されている。確かに、寝ても覚めてもと言うことは、身の程知らずの大袈裟あるいは誇張な表現である。しかしながら、めぐらしていることは確かな事実である。もちろんそれは、言葉や語句の忘却阻止のためである。わが文章など、容易きわまりない言葉や語句の羅列にすぎない。それでも、容易なものさえ浮かばなければ、文章はたちまち頓挫に見舞われる。
確かに、これまでの私は、この苦衷を何度味わってきただろう。ところがそのうえ、年齢を重ねるにつれて言葉や語句の忘却傾向は、いっそう加速度を増しつつある。それを防ぐにはしょっちゅう、心中に言葉や語句をめぐらしているより、ほかに逃れる手はない。こんななさけない理由で目覚めにあって私は、実際のところは似ても似つかぬ、反芻という語句をめぐらしていたのである。新型コロナウイルスのことなど書き飽きて、書きたくなければこんなどうでもいいことしか書けない。
きょうはわが身(八十歳)に訪れた、ワクチン予約開始日である。自然界は、今朝もまた明るい陽射しののどかな朝ぼらけを恵んでいる。ところが、いつもとはかなり異なるわが気分である。