薄らぎゆく、会話の愉しみ

 人様と出会い言葉を交わし合うこと、すなわち「会話」は、人間の楽しみの最上位に位置している。とりわけ、普段から気心が知れて親しい人との出会いと会話は、まぎれもなく互いの人生に生き甲斐をもたらし、文字どおり滑らかな潤滑油ともなる。
 出会いの席に互いの嗜好類(アルコールや好物の食べ物など)がともなえば、おのずから会話はいっそう弾んで、共に愉快な気持ちになる。そしてたちまち、互いのパラダイス(楽園)へとなり替わる。なかでも人の群がる酒席や宴席であれば群像劇さながらに、会話はあちらこちらへ弾んで小踊り光景さえ現れる。挙句、ほろ酔い気分になり、千鳥足で帰宅の途に就くことも多々ある。
 こんな大掛かりな会話ではなく、見ず知らずの人との出合いがしらの短い会話であっても、気分は弾んでくる。この場合はおおむね、互いに短い挨拶言葉である。挨拶言葉が会話の範疇に入るのか? と自問すれば、わが答えは確かな会話である。その証しにはこれまでの私は、スーパーなどにおけるレジ払いのおりには、その会話を求めて係りの人に意識して「こんにちは。あるいは、ありがとうございます」などと、ひと声かけを貫いてきた。もとより、一方通行のわが気分癒しであり、多くは会話にはなり得なかった。それでも、わが気分が崩れることはない。もちろん、相手を責める気分もまったくない。なぜなら、身勝手な自分自身の気分癒しにすぎないからである。
 いやわがひと声は、その場にふさわしくないありがた迷惑であろうと、自認するところがある。なぜなら、前後に並ぶ人たちはみな無言のままに、レジ道を通り抜けてゆく。おそらく、この行為こそ、寸刻を惜しむその場にはふさわしいのであろう。言うなれば私は、お邪魔虫なのであろう。それでも私は、カードを渡して支払いが済み、カードを受け取り、所定の籠を運ぶときには「こんにちは。ありがとうございます」と、ひと声かけを習わしにしてきた。ときには言葉が返り会話がなりたち、たちまち金を払うという、重たい気分が解(ほぐ)れた。
 ところが、いつの間にか互いのカードの手渡し行為が、無くて済むようになっていた。それはレジ通りの末端に、みずからカードを差し込んで支払いを済ます、自動のカード払い機(精算機)が据え付けられているせいである。この文明の利器のせいで私は、レジ通りにあってはもはや、ひと声かけのチャンス(機会)を閉ざされている。おのずから私は、ささやかな会話の機会の自然消滅をこうむっている。
 確かに、込み合い、レジ打つ(計算する)その場にはふさわしくなく、無用のひと声かけかもしれない。しかし、わがひと声とできれば返り言葉に、わが気分癒しを求める私には寂しさつのるものがある。
 古来人間の知恵は、さまざまな機械類を生み出し、それを道具にして人の営みを豊かにしてきた。ところが、このところの人間社会はややもすると逆転し、道具と思えていた機械類すなわち文明の利器に精神をボロボロと翻弄(ほんろう)されつつある。(なんだかつまらないなあー…)と、思うこの頃の私である。
 幸か不幸か私には、この先を案じる余生はほとんどない。夜明けの気分は、いつもつれづれである。ウグイスがさわやかに鳴いて、朝日が明るく輝いている。