世代交代

 「みどりの日」(五月四日・火曜日)の夜明けにあっては、のどかに明るい陽射しがふりそそいでいる。書きたい文章のネタなく、私は仕方なく実の無いいたずら書き始めている。
 さて、ありふれた簡単明瞭な言葉であっても、それぞれには重たい意味を含んでいる。たとえば、単なる机上言葉とも言える「世代交代」は、命の入れ替わりという厳かな意味合いを含んでいる。すなわち、これまでの命はみな尽き果て、次代の世になりかわる言葉である。重ねて言えばそれには、それまでの人の命がみな尽き果てるという、厳粛さが存在する。
 わが目覚めはいつも、ふと浮んだ言葉のおさらいや、再考察どきにある。今朝の目覚めどきには、世代交代という言葉が浮かんでいた。なぜ、浮かんだのかはかわからない。強いて因(もと)をめぐらせば、わが年齢(八十歳)が世代交代の時期にさしかかっているせいなのかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの発生以降、感染者や死亡者の年
 齢区分をほぼ毎日、いやおうなく見せつけられているせいなのかもしれない。確かに、年齢区分一覧表を見遣れば、わが年代は世代交代の狭間(はざま)というより、れっきとしたところに位置している。年齢区分上位には、九十歳もあるにはある。しかし、実際のところは付け足しとも思えるほどに、私にはまぼろしの感をぬぐえない。やはりわが年代こそ狭間というより、世代交代の真っただ中にある。
 世代交代という、言葉の意味がいや増すこの頃である。老いてなお矍鑠(かくしゃく)たる御仁(ごじん)には、わが不徳を詫びるところである。わが目覚めどきには単なる言葉遊び、いや身に染みて、言葉の重みをめぐらしている。確かに、書くネタのないときには、「三十六計逃げるに如(し)かず」である。なさけなくも、きょうはその証しである。