愚痴こぼし、諦念

 「ひぐらしの記」において私は、常々愚痴こぼしが尽きない。わが生来の性癖につきまとう、確かな悪癖である。だから、防ぎようのない恥晒しと、自認するところである。恥晒し打ち止めの唯一の便法は、もとより文章書きの打ち止めである。ところが、これを実践すればそれはそれで、心中の空虚感にさいなまれる。結局、これまでの私は、文章書きを続けるか、それとも止めるか、この鬩(せめ)ぎ合いのなかに、薄弱な意志を置いてきた。さらには優柔不断の性癖が加わり、これまで決着をつけられずにきた。このことをかんがみればわが愚痴こぼしは、おのずから意志薄弱の祟(たた)りと、言えそうである。
 今さらながらだけれど顧みれば、「ひぐらしの記」はわが生涯学習の実践の場である。そしてこれは、大沢さまのご好意により誕生したものである。このことでは、私はなんという幸運児であろうかと、常に感謝の尽きるところはない。このご好意に報いるわが恩返しは、継続と同時にできるだけ明るい文章を書くべしと、わが肝に銘じてきた。しかしながらそれは叶わず、わが文章は愚痴こぼしまみれにある。言うなればわが愚痴こぼしは、もとより「身から出た錆」であり、わが身にべったりと貼り付いて、まったく剥がしようのない柵(しがらみ)である。
 わが掲げる生涯学習とは、「語彙(言葉と文字)の復習と、新たな学びである。そのため私は、初志の忘却を防ぐためにこれまで繰り返し、こんなことを書き連ねてきた。これまた愚痴こぼしと同様に、恥を晒し続けてきたことである。もちろん、自戒すべきことだとは知り過ぎている。それでもことあるたびに書かずにおれないのは、わが性癖の貧しさの証しである。
 確かに、六十(歳)の手習いの文章は、わが能力をはるかに超えてきわめて重荷である。いや、語彙の生涯学習自体、絵空事(えそらごと)のごとくにとうてい叶わない願望である。もとより、新たな学習などは一切望めず、もっぱら忘却防止の願いにすぎない。確かに現在の私は、語彙の忘却傾向に晒されている。この挙句に私は、忘却に立ち向かう防戦一方を強いられている。防戦の武器は唯一、枕元に置く電子辞書である。電子辞書の携行が叶わない場合は、脳髄に語彙を浮かべての復習の試みである。これなど、忘却に立ち向かうわがささやかな抵抗である。
 寝坊助を免れて早起き鳥になっても、こんな文章しか書けない。きょう(四月十八日・日曜日)もまた懲りずに、私は愚痴をこぼしている。愚痴こぼしは、今やわが確かな宿痾(しゅくあ)なのであろう。電子辞書を開いた。【宿痾】「長いあいだ治らない病気。宿病。宿疾。持病。痼疾」。
 「バカは死ななきゃ治らない」という。わが愚痴こぼしは、明らかにこの成句の範疇(はんちゅう)にある。「論より証拠」、なさけない。きょうもまた、嗚呼、ああ……。