現代人は「否応(いやおう)無し」に、情報の渦の中に生きている。情報とは善かれ悪しかれ、それを受け取る人の心理を揺るがすものである。そのため、情報を受け取る人は常に、要(い)りようあるいは不要の取捨選択能力を磨いておかなければならない。なぜなら情報は、必ずしも自分自身にたいし、便益をもたらすとはかぎらないからである。いや無闇に情報にありつけば、多くの情報は無差別的に心中に流れ込み、心騒がす一因をなすところがある。
確かに私は、アナグロとかデジタルの意味や区別もまったくわからないままに、それらを操る文明の利器(端末機器)に、日々右往左往させられている。このことをかんがみれば私もまた、逃れようなく端くれの現代人の範疇にいる。そして案外、私はパソコンを使って無用な情報流しの一端に加担しているのかもしれない。いやいや幸いなるかな! 「ひぐらしの記」という表題をいただいて書き連ねてきた文章は、まったく無用の長物にさえなりきれない代物(しろもの)である。この点では悪びれることはないと、私は自己慰安に癒されている。
しかしながら「ひぐらしの記」を書くことにおいて私は、常に心中がびくびくしていると同時に、文章のネタ選びにあっては多くの自己制御を課している。それはもとより、不特定多数すなわち大衆に公開するブログに内在する、恐怖(バッシング)を防ぐための自主行為である。それらのなかで最もわが肝に銘じていることは、取るに足らない愚見であっても、みずからの意見らしいことは書いてはいけない、いや書かないという不文律の掟(おきて)である。すると、おのずから差しさわりが無いことをだらだらと、書き連ねる羽目となる。実際のところは日々、似たり寄ったりの文章で甘んじざるを得ない。このことでは私は、好意のご常連各位様にたいし常々、忝(かたじけな)い思いが満杯である。いや、わが能力の限界の確かな証しである。
私は寝床のなかで、これらのことを心中にめぐらしていた。そして、起き出してくるや、こんな文章を書き始めている。もちろん、なんらの価値もないだらだら文にすぎない。それでも、一つだけ価値を与えれば、寝坊助の脳髄に目覚めの負荷を与えることぐらいである。幸いなるかな! こんな無用の文章では、バッシングを受ける要素や要因は一つもない。唯一あるのは、無能力を嘆くわが悔しさだけである。
情報の少なかった子ども時代のわが心や行動は、文字どおり天真爛漫の振る舞いだった。ところが、さまざまな情報があふれる情報化社会にいる現在の私は、樽の中の里芋洗いのごとく、日々の情報に転がされている。つまるところ私にとって、垂れ流しの情報は「諸刃(もろは)の剣(つるぎ)」と、言えそうである。
文章の末尾にあっては付け足しで、簡易な二つの言葉の復習のため、電子辞書を開いた。【否応無しに】「不承知と承知。相手の意向には関係なく。有無を言わせずに。」【諸刃の剣】「一方では大層役に立つが、他方では大害を与える危険をとなうもののたとえ。」確かに、バッシングを受けようのない、無価値の文章である。
四月十六日(金曜日)、私は体冷え冷えの曇り空の夜明けにある。