晩節における楽しみ

 四月十二日(月曜日)。春なのに、一度目覚めると、悶々として、再び眠れない。私は、晩節のつらさ、むなしさに、身を置いている。寝床の中で私は、堂々めぐりのさ迷いに、とりつかれていた。とりとめなく浮かび、めぐる思いの多くは、箸にも棒にもかからない、雑念ばかりであった。それらのなかで一つだけ、ピカリと光るものがあった。それは、新型コロナウイルスに抗するワクチンの開発スピードの速さにおける称賛と驚異だった。実際のところは、人間の頭脳と技術への称賛と驚異だった。
 すでに書いたことの二番煎じとなるけれど、それはこのことである。すなわち、薬効を生み出し治験を繰り返し、容器をそろえて大量生産を成し遂げ、ワクチンという薬液を人体へ入れ込む速さに、私はあらためて人間の素晴らしさに驚嘆せざるにはおれないのである。このことだけでも人間が、万物の霊長と崇(あが)められる、実証と言えそうである。
 一方、浮かんだ雑多な思いは数々である。それらのなかから一つだけ記すと、まさしくわが下種の思いである。今さらながらに、人生の楽しみは何であろうか? と、自問を試みた。すると、真っ先に浮かんだのは、餓鬼の思いである。ずばりそれは、嗜好する好物の飲食にありつけることであろう。なかんずく、気の合う仲間たちとの会食ともなれば、それには飲食の楽しみに加えて、出会いの楽しみが重なっている。すなわち、人と出会い、そのうえ朗らかに語り合えば、これまた人間の大きな楽しみの一つである。新型コロナウイルス禍にあっても、会食がのさばり続けるのは案外、人間にまつわる楽しみを奪われることにたいする、素直な抵抗の証しなのかもしれない。
 私の場合はとうに会食の楽しみを失くし、今やもっぱら妻とふたりしての三度の食事だけが楽しみである。私との食事を妻が楽しんでいるかどうかは知るよしないけれど、いずれはどちらも個食(孤食)となる。このことをかんがみれば現在の三度の食事は、好物の大盤振る舞いでもいいはずである。ところが、実際のところはふたりして、春・山菜に舌鼓を打つだけである。いや、これで十分である。
 ネタなく、きょうは休むべきだった。このところは、のどかな朝ぼらけが続いている。これまた、わが生存を後押している。