野山賛歌

 四月十日(土曜日)、きのうに続いて寝坊助の起き出しをこうむり、心が焦っている。加えてきょうは、好物・春山菜の食べ過ぎによる、胃部不快感に見舞われている。好物を寵愛(ちょうあい)ならぬ溺愛(できあい)したための自業自得の春の祟(たた)りと言えそうである。いや、実際のところは幸運だから、春の祟りとか、しっぺ返しとか、言ってはいけない。なぜならそう言えば、好物たちから大目玉をこうむりそうである。
 焦燥感と憂鬱感を起き立てにあって、真っ先に癒し慰めてくれるのは、ウグイスの朝鳴き声である。加えて、窓ガラスを覆うカーテンを開けば、目に染みて心に沁みる山の緑である。野山の景色は、まさしく新緑真っ盛りである。芽吹きの頃の萌黄色から今や浅黄色になり、こののちは濃緑を帯びて、向かって深緑へと変ってゆく。これらの様子を手間暇やお金をかけずに眺めていると、日夜、山崩れや土砂崩れに慄いている私にとっては、山からさずかる望外の恩恵である。
 山の法面と一体をなす周回道路の側壁の上には、わが手植えの花大根(諸葛菜)が帯び長く、紫色の花を咲き誇っている。花の切れ目には野生のノブキがわが物顔に、押し合いへし合いしながら緑の葉を広げている。窓ガラスを通してこれらにかかわる人様の動きには、嬉しいことと悲しいことが入り混じる。嬉しいことは立ち止まり、カメラを向けてくださる人の姿である。一方、悲しいことは、根こそぎ捕って遠ざかる花泥棒の姿である。確かに、わが手植えの花大根は、今や路傍の花へと成り替わっている。それでも、この様子を眺めるわが夫婦は、腹立たしさと共に、虚しさに見舞われている。
 新型コロナウイルス禍の感染恐怖下にあってか、周回道路をめぐる見知らぬ人の数はやたら増えている。自然生えとも思える路傍の花大根が、気分直しや手慰みの一助となっているとなれば、知らんぷりをすべき行為なのかもしれない。ところが、わが夫婦はそんな悠長や寛容な気分になれない。不徳のわが夫婦である。
 今朝もまた心焦って、この先が書けなく、ズル休みの体(てい)である。夜明けの空はきのうの朝のカンカン照りとは異なり、どんよりとした花曇りである。周辺の桜の花は散り急ぎ、今や葉桜に変わり始めている。それでも、これまた好しで、この先わが気分を癒してくれであろう。惜しむらくは付近に川はなく、山河賛歌とは言えない。それでも、一方だけで十分の野山賛歌である。