予期しない悪夢による不快感には、腹立たしさがつのるばかりである。一方、私自身がしでかす不快感には、腹立たしさはお蔵入りである。それでも、浮かぶ四字熟語を用いれば、わがしでかす不快感は、自業自得(じごうじとく)とは言えそうである。
学童のだれもが知り過ぎている日常語だけれど、私は目覚まし代わりに電子辞書を開いた。【自業自得】「仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること。構成:自業は自分のなした悪事。自得は、自分自身に受けること」。
このところの私は、タケノコの食べ過ぎによる胃部不快感に見舞われている。まさしく、みずからの行為で、その報いを受けるという、語彙・自業自得の現場主義の学習である。いまさら、こんな学習はするまでもない。なぜなら、この世でタケノコに出遭って以来、私はタケノコを食べ続ければ、胃部不快感を招くことなど、知りすぎてきた。ふと浮んだ成句を用いれば、「猫かわいがり」に陥り、案外タケノコからしっぺ返しをこうむっているのかもしれない。これは物事のすべてに当てはまる、好きなものからこうむるしっぺ返しの報いである。もし仮にそうだとしても私には、タケノコを恨む気持ちはさらさらない。それほどにタケノコは、子どもの頃からこんにちにいたるまで、わが好物いや愛玩食材の筆頭に位置してきた。
食材だからレシピしだいで、さまざまな食べ物の具(ぐ)になりかわる。もちろんタケノコは、主役にはなれない。しかしタケノコは、このところのわが家の三度の御飯における名脇役(バイプレーヤー)である。単なる醤油味の煮つけ、味噌和え(よみがえる母のことばでは「味噌よごし」)、木の芽御飯の具など、まったく飾りけのない「素」の美味である。
タケノコふるさと便の第一便を食べ終えるにあたって私は、追加で第二便を甥っ子に依頼した。すると第二便は、きょうあたりにふるさと離れると言う。だから、胃部不快感はいまだに折り返し点にすぎないけれど、半面うれしい悲鳴が重なることとなる。しかし、胃部不快感をかんがみて私は、食べ過ぎには自動制御装置、すなわち制動(ブレーキ)をかける意を固めている。なぜなら、「贔屓(ひいき)の引き倒し」にでもなれば、タケノコには罪作りとなり、もちろん甥っ子の優しさにも背くこととなる。
好物を食べるには、舵取りすなわち塩梅(あんばい)や兼ね合いが難しいところである。結局、自動装置に頼ることなく、自己の制御装置を働かせる、心構えこそ必定(ひつじょう)である。現在の私は胃部不快感をおぼえて、確かにその決意を固めている。しかしながらこの決意には、第二便が宅配されれば雲散霧消、もとより元の木阿弥になりそうな懸念がある。
学童の頃にあって、母がこしらえる弁当の御数にあってのわが好物は、タケノコの煮物、椎茸の煮物、こんにゃくの煮物などが甲乙つけがたく、三位一体(さんみいったい)をなしていた。いずれも、単なる醤油味の煮物にすぎない。それでも、これらの入る弁当持参のときには、食欲と同時に勉強への意欲がかきたてられていた。これらにノブキの煮物が加わると、まさに好物三昧、鬼に金棒の弁当の御数のお出ましだった。胃部不快感など承知の助でやけ食いに嵌まるのは、それだけタケノコが好きという証しであろう。幸か不幸か私は未体験だが、見境ない恋愛ごっこもまた、いずれは共に不快感を招く恐れがあるようである。
タケノコの食べ過ぎによる胃部不快感は、腹八分どまりでは抑えきれない、わが意志薄弱の証しと言えそうである。悪夢による不快感には、文章を書く気にはなれなかった。ところが、タケノコの食べ過ぎによる不快感には、曲がりなりにも文章が書けた。共に見舞われる不快感ではあっても、大きく異なるところである。