太公望(釣師)は、水中や海中に釣り糸(多くは天蚕糸・テグス)を垂らして、水面や海面に浮く「浮き」を凝視し、引くあるいは当たりという、手ごたえを一心不乱に待っている。まさしく、青天白日の心境である。もちろん、文章を書くわが心境は、太公望とはまったく比べようがない。ちょっとだけ似ているかな? と、思うことで一つだけ浮ぶのは、文章を書くにあたって私は、心中に文意に適(かな)う語彙(ごい)をめぐらしている。ところが、実際のところはまったく異なる心境である。なぜなら、わが心境は一心不乱にはなりえず、常にアタフタ、ドタバタ、ジタバタまみれにある。
文章を書くことで最も恐れて、それゆえ心すべきことの筆頭は、文意の乱れである。文意が乱れてはもはや、文章にはなり得ず、乱脈きわまりない単なる語彙並べにすぎない。その列なりは、もちろん将棋倒しのような見栄えなど、まったくない。
次に心すべきことは、文中における誤字や脱字である。これらが文中に目立つようでは、これまた文章とは言えない。私はこれらのことに常に怯(おび)えて、文章を書いている。しかしながら、これらの恐怖から免れることは、毛頭(もうとう)できない。そのため私は、なさけなくも心中に逃げ口上を用意している。それは、「六十(歳)の手習いだからしかたがない」という、自己慰安である。
電子辞書に「自己慰安」という見出しはなく、言うなればやむにやまれぬわが造語である。自己慰安とは、みずからにたいする甘えの表現である。すなわち、私は自己慰安をたずさえて、ようよう文章を書いているにすぎない。だから、青天白日とは程遠い心境である。
【青天白日(せいてんはくじつ)】「①よく晴れた日和②心中包みかくすことのまったくないこと③無罪であることを明らかにすること。意味:真っ青な空に明るく輝く太陽。心が純潔で後ろ暗いところのないたとえ。構成:青天は青空。白日は、明るく輝く太陽。」
きょう(四月二日・金曜日)の文章は、自己慰安と無い物ねだりの文章である。ほとほと、はしたなく、忸怩(じくじ)たる思いつのるところである。