定年退職後におけるあり余る自由時間の暇つぶしのための、余儀ない六十(歳)の手習いだったから、仕方ないところとは、常々承知していた。そのうえ、生来のわが凡愚が重なり、さまざまに難行苦行を強いられてきた。それでも私は、定年退職を間近にひかえて以来これまで、二十年余も文章を書き続けてきた。文章と書いたけれど、文章と言えるかどうかに自分自身、常に忸怩(じくじ)たる思いつのるものがある。だから、文章と言えるかどうかは、人様の評価に委(ゆだ)ねるところである。このところの文章は、文章とは言えそうにない。実際にも私は、私日記風に、短い文章を書いている。もちろん、語彙(言葉と文字)をだらだらと長く、かつ書き殴りで綴るだけでは文章に値しない。もとより、私日記、俳句、短歌、詩、などのすべては、文章に値するものである。
「寸鉄人を刺す」、あるいは「寸鉄人を殺す」という、成句が存在する。あえて、電子辞書を開くこともない日常語だけれど、開けばこう説明されている。「ごく短い言葉で、人の急所を突くたとえ。寸鉄とは小さな刃物(身に寸鉄も帯びない)。ここでは鋭い警句」。
わが文章にあってこの警句は、無い物ねだりの物欲しさの証しになりかわっている。こんなどうでもいいことを長々と書いたのは、ひとえにこのことが起因している。
現在、日本国民の関心事のひとつには、新型コロナウイルスの第四波へのぶり返しがある。この場合は、はたして関心事という言葉は適当なのか? すなわちもっと直截的(ちょくせつてき)にふさわしい言葉に置き換えるべきではないかという、疑念である。そして、一つだけかえる言葉として浮かんだのは、それは「懸念(けねん)」である。
桜の季節にあって、のどかな朝ぼらけが訪れている。惜しむらくはわが心中には、新型コロナウイルス第四波への懸念がある。関心事と言うには、やはりいくらかの語弊がある。文章における語彙の用い方は、難しいところだらけである。確かに、このところの文章は、定年退職を間近にひかえて、にわかに思い立った「ツケ払い」のまみれにある。
三月三十日(火曜日)、わが能力の限界に嘆息しながら、人様にかたじけない思い、つくづくつのるところである。