かなり、願望交じりに期待していた。けれど、トランプ大統領(アメリカ)とゼレンスキー大統領(ウクライナ)との会談は、互いの主張を譲らず応戦を和らげることができずに、中止になったという。この先がいっそう思いやられる、喫緊かつ緊要の世界事情である。
こちらは、ニュースを観ていないからわからない。すなわち、岩手県大船渡市の山火事は、まだ燃え続けているのであろうか。さらにきのうには、長野県と山梨県にも山火事が起きていた。これらは日本列島に降りかかっている火の粉ゆえに、アメリカ・ホワイトハウスに起きている火の粉、遠い対岸の火事を見ているような気分にはなれない。ひたすら私は、いっときも早い鎮火と、恐れる付近住民の無事安寧を願っている。
こんな世界事情および日本事情がある中で、寝起きの私は、のほほんと自分本位の身勝手なことを心中に浮かべていた。(冬の季節にあっては日々、寒気に怯えていた。春の訪れが待ち遠しかった。だから、とうとうと言うべきか、いよいよと言うべきか)。春三月初日(1日・土曜日)の夜明けが訪れている。朝日なく、春霞なく、風雨はないもののどんよりとした曇り空の夜明けである。春は寒気こそ遠のけるけれど、名前負けしてぐずつく天候不順に見舞われがちである。眺めている曇り空は、その兆しなのかもしれない。心中で秘かに、(冬の季節が良かった)と、嘯(うそぶ)くようでは身も蓋もない。
年明け以降は季節に応じて落葉がなく、日課の道路の掃除は免れている。このため、買い物行の無い日の私は、ほぼ終日(ひねもす)、茶の間のソファに背もたれて、日向ぼっこを決め込んでいる。この間のわが動作は、ほぼこんな三つ巴である。一つは、開けっ広げの窓ガラスを通して、山や庭中を眺めている。一つは、傍らに置く駄菓子を貪り続けている。そして一つは、それらの合間に「難読語便覧」(三省堂)に眼(まなこ)を落している。これらのなかで最ものどかな気分になるのは、ツバキの花びらの蜜を吸いに、山から飛んで来る番(つがい)のメジロを見るひとときである。メジロはまるでサーカスの空中ブランコさながらに丸出しの花びらにぶらさがる。そして、揺れてほんのいっとき蜜を吸っては、危なくなったのかすばやく、葉っぱが覆う枝へ飛んで行く。するとこんどは枝葉を頼りにして、近くの花びらの蜜を吸い始める。だからと言って、メジロの危険が去ったわけではなく、追っかけてヒヨドリが荒らしに来る。メジロはヒヨドリに追っぱわれて、すばやく逃げ飛んで行く。
きのうから私は、パソコンを起ち上げる前には両耳に、補聴器を嵌めている。この狙いは、ウグイスの甘く初心(うぶ)な鳴き声を聞き止めるためである。ウグイスの初鳴き声が響けば、春本番の訪れにある。きのうに続いて名を知らぬ山鳥が、人の怒鳴り声みたいな響きで、いま頻りに鳴いている。ウグイスは、出番を挫かれているのかもしれない。あるいは、おとといまでにことしの初鳴きは、終えているのかもしれない。だったら、きょうの昼間にはウグイスの鳴き声に出遭えそうである。
コジュケイが庭中へ飛んで来れば、妻はパラパラと米をばら撒き始めることとなる。わが家の米は、甥っ子直送のふるさと産米である。だから妻は、高値にびくびくすることなくばら撒ける。自然界の恵みとわが夫婦の行動が相まって、待ち望んでいた春が来たのである。だけど、ウクライナの行き先と、日本の山火事の多さには、気を揉んでいる。
こちらは、ニュースを観ていないからわからない。すなわち、岩手県大船渡市の山火事は、まだ燃え続けているのであろうか。さらにきのうには、長野県と山梨県にも山火事が起きていた。これらは日本列島に降りかかっている火の粉ゆえに、アメリカ・ホワイトハウスに起きている火の粉、遠い対岸の火事を見ているような気分にはなれない。ひたすら私は、いっときも早い鎮火と、恐れる付近住民の無事安寧を願っている。
こんな世界事情および日本事情がある中で、寝起きの私は、のほほんと自分本位の身勝手なことを心中に浮かべていた。(冬の季節にあっては日々、寒気に怯えていた。春の訪れが待ち遠しかった。だから、とうとうと言うべきか、いよいよと言うべきか)。春三月初日(1日・土曜日)の夜明けが訪れている。朝日なく、春霞なく、風雨はないもののどんよりとした曇り空の夜明けである。春は寒気こそ遠のけるけれど、名前負けしてぐずつく天候不順に見舞われがちである。眺めている曇り空は、その兆しなのかもしれない。心中で秘かに、(冬の季節が良かった)と、嘯(うそぶ)くようでは身も蓋もない。
年明け以降は季節に応じて落葉がなく、日課の道路の掃除は免れている。このため、買い物行の無い日の私は、ほぼ終日(ひねもす)、茶の間のソファに背もたれて、日向ぼっこを決め込んでいる。この間のわが動作は、ほぼこんな三つ巴である。一つは、開けっ広げの窓ガラスを通して、山や庭中を眺めている。一つは、傍らに置く駄菓子を貪り続けている。そして一つは、それらの合間に「難読語便覧」(三省堂)に眼(まなこ)を落している。これらのなかで最ものどかな気分になるのは、ツバキの花びらの蜜を吸いに、山から飛んで来る番(つがい)のメジロを見るひとときである。メジロはまるでサーカスの空中ブランコさながらに丸出しの花びらにぶらさがる。そして、揺れてほんのいっとき蜜を吸っては、危なくなったのかすばやく、葉っぱが覆う枝へ飛んで行く。するとこんどは枝葉を頼りにして、近くの花びらの蜜を吸い始める。だからと言って、メジロの危険が去ったわけではなく、追っかけてヒヨドリが荒らしに来る。メジロはヒヨドリに追っぱわれて、すばやく逃げ飛んで行く。
きのうから私は、パソコンを起ち上げる前には両耳に、補聴器を嵌めている。この狙いは、ウグイスの甘く初心(うぶ)な鳴き声を聞き止めるためである。ウグイスの初鳴き声が響けば、春本番の訪れにある。きのうに続いて名を知らぬ山鳥が、人の怒鳴り声みたいな響きで、いま頻りに鳴いている。ウグイスは、出番を挫かれているのかもしれない。あるいは、おとといまでにことしの初鳴きは、終えているのかもしれない。だったら、きょうの昼間にはウグイスの鳴き声に出遭えそうである。
コジュケイが庭中へ飛んで来れば、妻はパラパラと米をばら撒き始めることとなる。わが家の米は、甥っ子直送のふるさと産米である。だから妻は、高値にびくびくすることなくばら撒ける。自然界の恵みとわが夫婦の行動が相まって、待ち望んでいた春が来たのである。だけど、ウクライナの行き先と、日本の山火事の多さには、気を揉んでいる。