起き立ての心境

2月20日(木曜日)。寒気がぶり返している。「春の音」を足踏みして、自然界の見え見えの悪戯(いたずら)と言えそうである。いや、春の音を悦ぶ人間界に対する、自然界の僻みや妬みなのかもしれない。一方、私もなさけない。なぜなら、こんな様にならない心境を携えて起き出している。寝起きにあって、文章を書かなくて済めば極楽気分である。ところが一方で、寂しい気分でもある。だから、いまだ二者択一を決めかねて、私は常に迷いの気分を同居させて起き出している。しかし、正直な気持ちではもう書かずに、安楽な気分に浸りたい思いのほうが勝っている。だけど、まだ迷っている。大沢さまから授けられているご好意を無下(むげ)にすることには、もったいない気分が横溢しているからである。このことはすでに一度、書いた記憶がある。すなわちそれは、途絶えていたわが生涯学習のヨロヨロの再始動のことである。私は就寝中の枕元には地震や停電に備えて、大慌てで「ヤマダ電気」から買って来た、懐中電灯を置いている。これに加わるものでは、スマホ、電子辞書、「難解語便覧」(三省堂)、はたまた市販の薬剤(風邪薬と便秘薬)などがある。どれもが、わが刹那(せつな)の命を助ける、「生存備品」と自認するものである。二つの辞書類だけは、それには役立たずと思うところはある。だからと言って、付け足しとも言えない。なぜなら共に、わが生存における「生き甲斐づくり」の一端を担っている。わが心中には常に、(もう書かない、もう書けない)と、声なき声が蠢(うごめ)いている。だから、きょうも書けそうにない心境で起き出している。ところが、こんな様にならない文章を書いている。それはやはり、大沢さまから授かっている、わが生涯学習の実践の場を失くすことを恐れているためである。私は、大沢さまのご好意に食いつく「ダボハゼ」さながらである。子どもの頃の私は、春になればふるさとの「内田川」で釣り糸を垂れて、「ゴーリキやシーツキ」(川魚のハゼ類)などを嬉々(きき)として釣り上げていた。翻って私はなけなしの脳髄に怯えながら、大沢さまのご好意に食いつき釣り上げられている。だけど、大沢さまのこの好意が無ければ、わが定年後の世界は闇の中であったのである。春の音の足踏みはしばし止んで、春霞の夜明けが訪れている。こんな、起き立て、出まかせ、相同居する文章など、書かないほうが身のためだったのかもしれない。文章書きは、わが凡愚の脳髄には負えない。挙句、常に出鱈目(でたらめ)文章である。