娘と母(妻)、旅道中

 当時は気づかなかったけれど、子どもの頃に遊んだカルタの読み札には、いろんな人生訓が含まれている。「節分」(2月2日・日曜日)の寝起きにあって、わが心中には語順にそって読み札が浮かんでいる。その一つ、「負うた子に教えられる」には、ちょっぴりうれしさつのるところがある。ところが、これを捩(もじ)った咄嗟のわが成句、「負うた子に世話かける」には、切なく寂しさつのるところがある。
 きょうの関東地方には、雨ないし降雪や積雪予報が出ている。現在、デジタル時刻は4:48と刻んでいる。それゆえに私は、起き出して来てパソコンを起ち上げる前に、傍らのカーテンと窓ガラスを開いて外気を確かめた。一基の外灯が灯す道路上には、積雪は見えず降りやんだばかりの雨の跡が見えた。予報が確かであれば、こののちの降雪の準備は十分整っている。
 さて、現在の私は、わが家にあって独居のさ中にある。もちろん、病身の妻が逝ったせいではない。娘が母(妻)を一晩泊りで、往復新幹線利用で遠出の旅へ連れ出しているからである。娘の善意(親孝行)なのか、それとも悪意(旅費用はわが支弁)なのか、それはわからずじまいだけれど、私は渋って娘と妻の二人だけの旅立ちである。
 私は妻の身体模様を鑑みて、「やめとけ」と言いそうになった。しかし妻は、娘の誘いを断り切れず旅立っている。いくらか不同意の私は、行き先の詳細は知らずのままで、たぶん静岡県浜松方面である。二人が出かけたのちの私は、スマホ情報にすがり、不時の臨戦態勢にある。ところが、幸いなるかな! 現在までは、娘と妻のウキウキ気分の様子がまるで、間欠泉のごとくに噴き出し流れてくる。先ほど(夜中2:13)のメールには、妻が夜景の素晴らしさを伝えてきた。二人は就寝中のはずなのに、妻は心が浮きだって寝つけないのだろうか。私の場合は、いつもの二度寝にありつけず、悶々として起き出している。二人の旅はあと半日あまり、私は無事の帰宅を祈って、ひたすら待つのみである。
 妻が帰ってきての豆まきは、例年とは異なり「鬼は外(そと)」の掛け声と、豆のぶっつけは免れそうである。だけど今夜の豆まきは、心配と共に高額な「福豆」になっている。冬から春への確かな季節変わりの節分にあって、降雪や積雪予報にはたじろぐばかりである。一方、現在の私は、娘と母それに妻をダブらせて、わが家の吉報を待つところにある。
 ほぼ一時間の書き殴りを平に詫びるところである。夜明けはまだ遠く、娘と妻への心配事は、まだ半日余も残っている。独居生活を愉しむ心の余裕はない。