「前田さんは、飽き飽きしていないのか?」と、問われれば飽き飽きしている。確かに、毎回同じような書き出しで飽いている。しかしながら、それを恥晒しと思えば書けず、もとより文章の継続はあり得ない。だから、懲りずに書いているだけである。
1月29日(水曜日)、現在のデジタル時刻は5:05であり、わが起き出し時刻の定時(5時)、ほぼ近くにある。このところは寒気が緩んで、嘆き節の一つは免れている。だけど、嘆き節はまるで雨後の筍(たけのこ)のごとくに、ひっきりなしに現れてくる。きのうは「ダジャレ文」と表題を付けて、実際のところは嘆き節の真実を書いた。きょうも、またあすも、その延長線上の文章を書きそうである。なぜなら、これを留めたらたちまち、文章は沙汰止みとなる。確かに、文章を書かなければ、マイナス思考や恥を曝け出すことは免れる。ゆえに寝起きの私は、常に心中で(書こうか書くまいか)と、自己葛藤の渦の中にある。こんな心境で綴る文章に、希求する明るさなどあるはずもない。だったらやはり、(もう、書かない!)と、決め込んだほうがよさそうである。ところが私は、その決断にさえもさ迷っている。ゆえにこのところは、ひしひしとわが脳力(能力)の限界に脅かされている。
具体的には長年の書き疲れと、ネタの書き尽くしのダブルの穴に陥っている。私はネタ不足を補う、得意の分野を持たない。だから、これまでの私は、ネタ不足に見舞われると、郷愁や母恋慕情を募らせてどうにか文章を繋いできた。しかしながらこれらも、すでに書き尽くしている。挙句、現在の私は、にっちもさっちもいかない状態にある。まことにつらい、楽屋話である。あれれ! きょうはこんなことを書いて、文章を閉じる羽目となる。
年が変わり、幸いなるかな! わが一つの日課が消えている。それは道路上に落ち葉が無くなり、日課としていた道路の掃除を免れていることである。私にすれば大きな負担軽減である。ところが好事魔多し、日課ではないけれど、半年間の町内会の班長(24世帯)の役が回ってきている。老齢(84歳)のわが身には、大きな心理上の負担を成している。
壁時計の針は5時半あたりを回っている。実の無い文章は、ここで書き止めである。ガラス窓の外は、いまだ真っ暗闇である。しかし、きょうの鎌倉地方の天気は晴れの予報である。鬱な心の癒しになりそうである。
嘆き節
