わが精神は希望を断たれ、身体は老いさらばえている。余命は、カウントダウンの後半のさ中にある。日々、私は生きることに苦しんでいる。いや、私にかぎらずおおむね、人生の終末を生きる、人間の精神と身体模様(状態)である。人は生まれると赤ちゃんと呼ばれ、こののちは生涯を生存の期限として、年数という時を刻んでゆく。もちろんそれを、三区分で表すには大まかすぎる。けれど、若年(じゃくねん)、中年、老年と、区切ってみる。確かに、大まかすぎる。なぜなら、若年にあっても年代は、赤ん坊、幼年、少年、少女、あるいは総じて青少年、そしてこれらをひっくるめて「子ども時代」と言える。子ども時代の先は、それを脱して日本社会(国)が認める「おとな時代」である。その儀式と言えるものは、年を変えて毎年訪れる「成人の日」(国民祝日)である。かつての成人の日は一定日(1月15日)だったけれど、2000年から1月の第2月曜日に変わっている。変更の意義は週末二日の休日に合わせて、三連休とするためのものである。これに基づいて、新年(令和7年・2025年)の「成人の日」(1月13日・月曜日)が訪れている。おのずから、三連休最終日である。現在の時はまだ夜明け前であり、夜明け模様(天気)を知ることはできない。しかし、寒気は肌身に沁みている。余命わずかとはいえ私もいまだ日本国民ゆえに、もはや成人の日は無縁とは言い切れない。ゆえに私は、新成人のおとなへの門出を寿(ことほ)ぐ気持ちを十分にたずさえている。現下の日本社会は、少子高齢化社会にある。このことを鑑みれば新成人は、まさしく日本社会の宝物の真っ只中にある。だからすべての新成人は、前途洋洋の意気をたずさえて、各自治体が催す「成人式」に出席することを願うところである。もちろん、それにありつけない妬みや僻みなど一切なく、新成人のおとなへの門出に際し、謹んで餞(はなむけ)の言葉を添えるものである。気になるのはやはり、成人式(祝典)にあたりきょうの天気模様である。立って、傍らの窓ガラスを開けて、外気を確かめた。一基の外灯が淡く灯す中、風・雨共にない静かな夜明け前にある。きょうの天気予報は聞きそびれている。
成人の日
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