きのうの文章は『最後の砦』、変な文章を書いたものだと悔いている。「ひぐらしの記」はやはり、もう書くべきではないのかもしれない。書かなければ自分自身、楽な気分になるし、人様に不快な気分を、及ぼすこともない。もちろん、わが文章の拙さのせいである。ひぐらしの記は、私日記風特有に、日を空けずに書き続けることだけを願っている。命題にそって文字どおり、「日暮らし日記」と言えるものである。実際には寝起きの朦朧頭と眠気眼、加えてみずからもうけている制限時間内に書いている。挙句、おのずから文意および文体のととのわない、書き殴り文に陥っている。ゆえに恥を晒し、同時にわが悔いるところである。しかし、悔いてどうなることでもない、わが能力の限界をこうむっている。継続を叶えるためにはただ一点、どんな餌にも食いつく「ダボハゼ」の心境をたずさえていなければならない。なぜなら、ネタ(餌)がなければひぐらしの記は、たちまち継続を断たれて「お陀仏」となる。この時季、寒気に震えて書く価値はない。しかしながら一方、私は継続が断たれたのちの「心の空白」に怯(おび)えている。だから私は、ダボハゼ状態になって、釣り針を含んでいようがいまいが堪えきれずに、なんでもネタになりそうなものには飛びつくのである。寝起き書きの習性にしたがって、パソコンを起ち上げると机上カレンダーを眺めた。するとシメシメ、ネタになりそうな歳時にありついた。喜び勇んで、机上に置く電子辞書を開いた。まさしく私は、人魚の大型のダボハゼさながらである。きょう(1月11日・土曜日)には、二つの歳時(行事)が記されている。だれでも知るものだけれど、継続を叶えるためには、おのずから恥の掻き捨ては厭(いと)わない。一つ目「鏡開き」、【(「開き」は「割り」の忌み詞)。①正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。近世、武家で、正月には具足餅を、女は鏡台に供えた餅を正月20日(のち11日)に割って食べたのに始まる。鏡割り。②祝い事に酒樽のふたを開くこと。鏡抜き】。二つ目「蔵開き」、【新年に吉日を選び、その年初めて蔵を開くこと。多くは1月11日とし、福神に供えた鏡餅で雑煮を作ったりする】。寒気にブルブル震えて、この先、自作文を加える気はしない。夜明けはいまだ訪れず、窓ガラスの外に太陽の光はなく真っ暗闇である(5:57)。