12月30日(月曜日)。起きて洗面を済まし、パソコンを起ち上げて、キーボードへ向かっている。壁時計の針はわが決めている定時を過ぎて、6時近くを回っている。身体を脅かす寒気は、冬季であれば平常であろう。しかし、寒気に極端に弱いわが身体は、ブルブル震えている。夜明け前にあっても、「冬至」過ぎたのちの夜明けの早さはいまだ見えず、窓ガラスを通して見るが外気は真っ暗闇である。このところの私は、わが家の年の瀬、とりわけ買い出し模様を書き殴り特有に、長い文章で四日ほど綴った。ところが、拙い文章は大沢さまのコメントを賜り、綾を成して色づいた。書き疲れていたわが身には、感謝感激にひたるうれしいプレゼントだった。
さて、年の瀬は窮まりあすは、ことし(令和6年・2024年)を締める、「大晦日」(12月31日)である。ことし一年、ときにはずる休みに勝てず途絶えたけれど、おおむね文章は継続が叶ってきた。文章の不出来など省みず、このことには自分自身を寿(ことほ)いでいる。自惚(うぬぼ)れと、言い換えていいかもしれない。こんな心境を恥や外聞をも厭(いと)わず晒しているのは、文章はこの先(来年)へ繋がりそうにないように思えているからである。この一年のわが心の襞(ひだ)には、「84年(歳)」が絶えずこびりついて、わが生き様を脅かし続けていた。すると来年は、これにさらに輪をかけて必定(ひつじょう)、「85(歳)」に脅かされることとなる。まさしく、文章書きにとどまらず、わが生き様における「恐怖」の訪れにある。
もとより「人の命」は、一寸先は闇の中にある。だからわが命とて、85歳(令和7年・2025年、7月15日)へ、辿り着く保証はまったくない。運よくわが命あっても、文章書きを妨(さまた)げるわが家の事情は数多ある。ところが、これらに打ち勝ち文章書き続ける気力は、私にはまったくない。書くまでもないことを書いているけれど、わがマイナス思考のこの一年の納め文として、書かずにはおれないものである。ゆえに、平に詫びるところである。
韓国では旅客機墜落の事故が起きている。日本にあっては大雪情報や予報が溢れている。人様の多くは9連休にことよせて、いや、いくぶん浮かれて、国内外への旅立ち模様が喧(かまび)しく伝えられている。物見遊山への旅立ちのない私は、ちょっぴり羨むところである。けれど、なにかにつけて「好事魔多し」の世の中である。すると、わが家に居ながらにこんな文章を書いて、新年迎えそうな私は、案外幸福者なのかもしれない。
ようやく明けた夜明けの空に、雪降りや兆しはない。年の瀬、表題のつけようなく「無題」である。
年の瀬、表題のつけようなく「無題」
