12月29日(日曜日)。ほぼ定時の起き出しにあり、気温は低く寒気をおぼえて、わが体内温度を脅かしている。ことし(令和6年・2024年)の大晦日は明後日(あさって)に迫り、この1年のいや、人生84年の総括を試みたい心境にある。すると、近・現代の世相にあっては稀に見る、わが甲斐性無しのことが浮かんでくる。挙句には内心、みずからを蔑(さげす)み、なさけなく悔い心まみれになる。とうとう私は、わが家には駐車場を作らず、自家用車を持たず、わが生涯を閉じることとなる。バイクは購入し、いくらかは乘ったけれど、それでも事故を恐れて、免許証は早々に返納した。わが精神には生来、集中心が欠けるところがある。加えて、機械や機器の操作には、手先不器用のところがある。卑近なところでは、パソコンやスマホの操作には日々往生(おうじょう)するばかりである。
私は買い物行動のバスを降りて、わが家へ向かう道路では、いつもこんなことを浮かべている。それはわが買い物風景にあっては、隣近所の物笑いになっているだろうという思いである。確かに自分自身、スマホを翳(かざ)し自撮りして、見たくなるような滑稽きわまりない姿である。かつては国防色、今は買い替えて背負う空色の買い物用の大きなリュクは、常にダルマのように膨らんでいる。これだけでは収まらず左手および右手には、道路を擦(こす)りそうになるのを慌てて引き上げる、重たい買い物袋をぶら提げている。内心ではこうも、思っている。共に、歯を損傷し食べどきに不自由をかこつ老夫婦なのに、なぜいつもこんなに、たくさんの買い物あるのだろうと。
現下、買い物現場(それぞれの店)には、物価高が渦巻いている。それでも人は、生きるためには食べなければならない。そして人みな、どうせなら選んで、美味しいものを食べたくなる。これこそ、食べ物探しにまつわる金科玉条とも言える、古来不変の人間固有の心情と言えそうである。もちろんこれを果たすには、のほほんは許されず、金銭の有無という箍(たが)が嵌められる。それゆえに人は、好きな食べ物探しには不断、目の色を変えなお神経を尖らすのである。
きのうの私は予告どおりに単独で、いつもの大船(鎌倉市)の街へ、買い物に出かけた。この日の買い物には普段と比べて、品物選びに迷うことはなかった。妻との約束を叶えるために私は、真っ先に「鈴木水産」へ出向いた。着くやいなや私は、前日妻と共に目をつけていたカニ(束)をすぐに所定の籠に入れた。ところが、きのう買い渋った罪滅ぼしなのか、咄嗟に妻への手土産が浮かんだ。箱に10匹ほど並んでいた刺身用の大きな生エビをも籠に入れて、レジに並んだ。鈴木水産はここで用無しである。
次にはきのう「もう、持てないよ」と言って、きょうへ延ばしていた「西友ストア大船店」へ急いだ。ここで、二日にわたる年の瀬の買い物行動は完結した。買い物帰りの姿は普段の姿になって、私はヨロヨロトボトボと歩いて、ようやくわが家に着いた。ウグイスやカラスの「おまえ、バカだなあ……みっともないよ」の鳴き声は免れた。しかし、隣近所の人の盗み目の物笑いは、あったかもしれない。大船の街は年の瀬特有の買い物風景を晒して、人出の多さでごった返していた。私はその渦中で、生きるためには美味しいものを選んで食べなければならない人間、いや命あるものの業(ごう)の浅ましさを浮かべていた。命を持たない自然界は、外連味(けれんみ)なく、朝日を輝かしている。
きょうで年の瀬、四重奏の文章
