年の瀬の約束事

 12月28日(土曜日)。「冬至」(21日)が過ぎて、一週間ほど経った夜明け前にある。当たり前だけれどきのうまでは、まだ夜明けの早さは感じないままである。その証しに今は、夜の長さを引き継いで、外気は真っ暗闇である。人工のカレンダーだけは先を急いでめぐり、年の瀬はきょうを含めて4日残しにある。除夜に打つ最寄り、鎌倉・円覚寺の鐘の汚れはすでに清められて、時(大晦日の夜)を待つばかりである。私はこの一年(令和6年・2024年)これまで、心象には「喜怒哀楽」の風景をたずさえて生きてきた。そして、命が大晦日まで絶えずにまっとうできればこの一年を、いやわが人生84年、かつまた数多の日を残し、生きながらえることになる。「めでたし、めでたし」と、両手を叩くほどではないけれど、やはりちっとは喜ぶべきであろう。
 さて、喜怒哀楽の心象風景は自分自身の行い、なお煎じ詰めれば文章書きに凝縮している。文章を書き終えれば喜び、ずる休みを続けていると、自分自身を怒った。ネタ無しやネタ切れに遭遇すれば、哀しさで気分は萎(しお)れた。一方楽しさは、掲示板上の出会い、すなわち継続から生じていた。まさしく、文章書きがもたらしたわが心象にこびりつく、この一年の「喜怒哀楽」だった。
 翻って日本社会のこの一年は、物価高に苦しむ国民の嘆き模様だった。換言すれば「金欲しさ」の国民の嘆きだった。多くの詐欺や強盗事件、そしてこれらの窮まりには「闇バイト」が世間を騒がし続けた。すると、これらの証しにはまるで金欲しさを逆なででもするかのように、ことしの漢字一字には「金」が選ばれた。
 閑話休題。ことしのわが日暮らしにあっては、自分自身にかかわることでは主に二つのこと、すなわち通院(月ごとの薬剤貰い)と、日常の買い出しがあった。一方、わが家の主(あるじ)としての役割には、家庭内における妻への支えがあった。これに加えて、妻の外出時(通院、薬剤もらい、その他はほとんどない)のおりの率先同行があった。ところがきのうだけは、妻の率先行動に私が従った。
 きのうの妻の行動は、「パパだけには、任しておれないわ……」と言う、正月支度の買い物だった。妻の言動に素直に従い私は、わが不断の買い物の街・大船(鎌倉市)へ出かけた。わが決めている買い物コースには、順次4店舗がある。終点一つ手前の「行政センターバス停」で降りると、私はいつもとことこと歩いてこの順路を回る。きのうの二人の行動もその予定だった。
 先ずは野菜と果物の安売り量販店「大船市場」。次には、食材としては一方を為す海産物の安売り量販店「鈴木水産」。三つめはこの店の向かいある、馴染みの「肉と惣菜店」へ入る。そして四ツ目、最後の総合仕上げには「西友ストア大船店」へ向かう。ところが、きのうの妻との買い回りにあっては三つ目で持ち切れなくなり、仕方なく西友ストアはきょうへ持ち越になった。妻の買い物目当ての品物は、おおかたきのうで叶えられて、おのずからきょうはわが単独行動になる。
 しかしながらこれには、ただ一つ妻との約束事が付き纏っている。それは、鈴木水産におけるいくらか「お金の」出し惜しみから生じている、買い渋りのせいである。このときの二人の会話を再現すればこうである。
「パパ。カニも買いましょうよ。わたし、カニ食べたいわ。一年に一度だから、買って二人だけで、お正月前に食べましょうよ」
「食べたいなら、買えばいいよ。俺も好きだから、買えばいいよ。だけど俺は、俺の好きな高い数の子を買ったばかりだから、カニはどうでもいいよ。だけど、カニも買えばいいよ」
「パパも、カニ好き好きと言ってるじゃないの。買いましょうよ!」
「うん、買うよ。だけど、あんなに嵩張るの、もうきょうは持てないよ。あした、俺が買い行くよ」
「うれしいわ。もう持てないから、西友ストアへ行くのは止めて、帰りましょう」
 正月二日には、娘たちが来る予定にある。カニに関する妻の覚悟は、誉めてやりたいほどにたいしたものである。とりわけ、「二人だけで食べましょう」の決意は、見事「あっぱれ」である。
 夜明けの空は日本晴れの下、明るく輝いている。きょうの私には、妻との約束事を果たす、単独の買い物行動がある。