12月26日(木曜日)。日本社会は一つの年末行事「クリスマス」を過ぎて、次には年の瀬・究極の「大晦日」(12月31日)へ向かっている。そして明ければ迎春、新たな年「令和7年」(2025年)の始まりにある。なんだか希望の持てるような世のめぐりである。ところが、人生の後がないわが身にあっては然(さ)にあらず、時のめぐりに合わせてモチベーション(意気)は沈むばかりである。
起き立ての私は常々、ふと浮かぶ随想にすがりながら、かつまたなけなしの脳髄にみずから鞭打ち、文章を書いている。こんなことではもとより、気の利いた文章など、書けるはずもない。実際には生来のマイナス思考がたっぷりと顕れて、泣き言まじりの文章を書き続けている。ゆえにわが気分は、おのずから滅入るところにある。
わが人生はすでに84年が過ぎて、年が変われば半年余(7月)には85歳となる。一寸先は闇とはいえ、なんで85年も生き延びるのであろうか?……と、嘆息をおぼえる日は稀ではない。精神は病んで文章書きには手古摺り、日々気を揉むばかりである。しかしながら反面、身体は他人様(ひとさま)並みを超えて、いたって健康だと、自覚(自負)するところにある。こう思うのは日々、伝えられてくる友人・知人、はたまた親類縁者の体調不良を鑑みてのことである。
灯台下暗し、三つ年下の妻の身体の衰えを見るかぎり、とりわけこの思いはつのり、耐え忍ぶばかりである。いややはり、自分のこととて別枠「健康の範疇」には置けない。このところの私は、年寄りの冷や水そして後の祭りさながらに、途絶えていた「語彙」の生涯学習の再始動を試みている。ところが、散々な憂き目に遭遇している。すなわちそれは、脳髄の劣化と退化現象に遭って、そのつど嘆き慌てふためいている。挙句、わが自負する健康体は、なんだ「張子の虎」だなと自嘲し、溜息を吐くところにある。
人間の生存、いやわが生き様は、基は「衣食住」に支えられている。ところが、終末人生にあってはこれらに、医療費が箆棒(べらぼう)に加わっている。もとより、妻と私の身体(生存コスト)は一心同体にある。互いの身体に付随する診療費と薬剤は、家計を脅かすばかりである。妻の場合は細身の身体(約38キロ)に、6種の薬剤を流し込む有様である。おそらく体内では互いに通せんぼをしあいあい、おのずからどれかの効果は減殺(げんさい)をこうむっているであろう。
健康体と嘯(うそぶ)く私でも、二つの薬剤の服用を強いられ、目には緑内障の進化を防ぐ点眼液を落としている。これらのほか、続行こそ免れてはいるけれど、耳には高価(45万円ほど)な補聴器を嵌めている。歯は年明け早々(7日)より、これまでほったらかしにしておいた、前歯の欠損の所に差し歯処置が始まる。さらには、なんだかメガネも替えどきにある。
きょうの寝起きの文章には、生き続けることの「損得」を書いてしまった。わが迷える心象(心証)を癒してくれているのは、夜明けの大空に青く広がる日本晴れのさわやかさである。欲張って、あと一年ぐらいは生きてみたい気もする、年の瀬のつぶやきである。
年の瀬のつぶやき
