クリスマス(12月25日・水曜日)。世の中の人たちの多くは、きのうのイブ(前夜または前日)と共に、祝福あるいは「食欲旺盛」気分に浮かれて、楽しくこの日を迎えているようである。実際にはきのうの昼間、「ケンターキー・フライド・チキン」の店舗を前にして、まるで長蛇のごとくくねくねと曲がる列を目にして、わが夫婦はしばしこんな思いに浸っていた。わが夫婦はこの列には加わることなく、この店から数メートル離れた、「牛丼」を看板メニューとする「すき家」へ入った。いつもは値段の安いことにことよせて、そのうえさらに最も安価な「ミニ牛丼」メニューを選んで、勝手知った注文ボタンを押す習わしにある。二人してキョロキョロと、壁に貼られていたまるで世界地図みたいにだだっ広く、数えきれなくあるメニュー一覧表(絵柄)を眺めながら、最上位に位置する最も高価なメニューを長く見詰めていた。実際のところは止せばいいのに、注文メニューに思案投げ首状態にあったのである。挙句、この日にかぎり阿吽(あうん)の呼吸は、こう言い放った。
「パパ。『すき焼き鍋』を食べてみましょうか?……」
「そうだね。食べてみよう!」
こののちは、一人で忙しく動き回る係の見目麗しい若いパート女性を手招いて、妻はあれこれとメニューの詮索をした。私は支払者特有に心中で、(美味しさはともかく、費用対効果)を浮かべていた。二人して、「すき焼き鍋」に決めた。けれど、注文ボタン押し方が分からず、係の女性に押してしもらう始末だった。
次々に入ってくる客は、注文ボタンの操作に手慣れて、だれもがスムースに注文にありついていた。私は手間暇をかけたことで、丁寧な言葉で係の女性に詫び、同時に注文動作を依頼した。注文が済むと安堵して、店内模様や客の姿を眺めていた。
時を置かず湯気が立ちのぼる二つの「すき焼き鍋」が運ばれてきた。相対で見る双方の皺だらけの顔に、艶々の笑顔が溢れた。食べ終わると二人は、美味しさに満足した。実際のところ私は、病身の妻が満足さえすれば美味しさはどうでもよかった。けれど、費用対効果は、効果のほうが勝り、十分に元が取れたのである。
私は妻より先に立って、千円札二枚を自動の支払い機に入れて、1750円を支払った。釣りの250円は、コロコロと硬貨入れに落ちた。実際にはここでも、係の女性の手を煩わしたのである。やおら病身を擡(もた)げる妻の手を取り、二人とも満腹の面持ちで外に出た。寒風が吹き晒す「ケンタッキー・フライド・チキン」の前には、いっそう長く人が並んでいた。
きのうのわが行動は、妻の引率行動だった。先ずは当住宅地内最寄りのS医院への通院、次には「パパ。わたし、大船で買い物したいのがあるの………」と言う妻に逆らえず、二人は最寄りの「北鎌倉バス停」から、巡ってきた「大船行きバス」へ乗り込んだのである。寝起きの私は、こんなことを書くつもりは毛頭なく、久しぶりにネタを従えていた。ところが、書き出すとこんな文章になり、慌てふためいてここで結ぶものである。
のどかに、日本晴れの夜明けが訪れている。雪の降る「ホワイト・クリスマス」など望んでいないからこれでいい。フライドの七面鳥は食べなかったけれど、美味しい「牛すき焼き鍋」にありついて、まずまずのクリスマスを迎えている。
クリスマスと「すき焼き鍋」
