寝起きの文章は様にならず、書くだけ

 起き出して来て、年の瀬・12月23日(月曜日)の夜明け前にある(4:35)。視界や身体には感じないけれど、自然界と人間界の定説にしたがえば「冬至」(おととい)過ぎて、夜明けは早くなり始めている。冬至にちなんで再び、いま浮かべている言葉がある。それは、大沢さまと妹さんとの短い会話の一端である。一端ゆえに、妹さんのお話のところだけを記すとこうである。「これから本格的な冬が来るのよ。冬に至るって書くんだからね」。不断の私は、大沢さまのマルチタレント(多才能)ぶりに、「心酔と憧れ」のダブルの思いを抱いている。ところが、私は妹さんの機知(力)の豊かさにもまた驚異をおぼえたのである。「冬至」そしてそれに対応する「夏至」は、共に「冬に至る」あるいは「夏に至る」と読み替えれば、確かにそれだけで季節感の充満や躍動にありつけるところがある。長く文章を書いてきたのに私は、このことに気づかず、妹さんの言葉に魅せられたのである。まぎれもなく冬至は、「冬に至る」である。なぜなら、起き立ての私は、冬至過ぎて本格的な冬入りと、それにともなう寒気の強まりに、太身をブルブルと震わせている。
 夜明け前、夜明け、そして朝はなんで、来るのだろう?……。これらのたびに私は目覚め、起き出してこなければならない。起き出せばパソコンを起ち上げて、なけなしの脳髄に鞭打ち、文章を書かなければならない。もとより凡庸の私には、病巣に太い注射針を刺す痛みがある。確かに、地球のめぐりには昼間も夜間もある。現在の私には職業や定期の用事など一切なく、年じゅうひもすがら暇を貪っている。だったら、寝起きに書く苦しみなど捨て去り、昼間に書けばいいと思うところはある。そして何度か、昼間書きを試みたけれど、元の木阿弥を繰り返して定着せず、今なお起き立てに甘んじている。
 寝起きに書く文章はネタの用意なく、かつまた執筆時間にせっつかれて、おのずから書き殴りの憂き目をこうむっている。挙句、自分自身、文章書きの妙味も損なわれがちにある。この反動で、昼間書きへの願望は常に募るばかりである。しかしながらこれまで、その願望は果たせないままである。翻って寝起き書きの利点を鑑みれば、これ一点のみである。すなわちそれは、寝起きに書くからこそ文章の継続が果たせていることである。
 昼間書きの弱点は、文章の体裁は確かにととのっても、半面継続は危ぶまれるところがある。その理由には、こんなところである。昼間にあっては定期の仕事は無くても、生きるための雑多な用件は多々ある。それらの中で主なところは、街中・大船(鎌倉市)へ買い出しと、様々に病医院を変えての通院である。加えて、書く時間の多さにはそのぶん気の緩みに見舞われ、時の縛りが外れて、挙句、継続が断たれる羽目になる。寝起き特有の書き殴りにあって、きょうもまた文章は、エンドレスになりかけている。ゆえに、ここで意識して断つものである。確かに、寝起きの文章は継続だけには有利である。しかし、文章の体(てい)を為さないのは、わが泣きどころである。
 手のろゆえに、冬空の夜が明けを訪れている。寒気が強いせいか、青深い日本晴れである。きょうのわが予定には、当住宅地の中の最寄りのS医院への通院がある。