死んでも、あの世へは行かないよ

 12月22日(日曜日)。きのうの「冬至」明けの初日にある。パソコン上のデジタル時刻は、4:50と刻まれている。最長の夜を挟んで、ほとんど寝つけないままに目覚め起き出している。そのせいか、(堪えきれないよ。だから、雑多な思いはもう止してくれ……)。心が音を上げているような好悪、様々なことが浮かんでいる。
 バカなことの一つはこれである。わが身体はまだ夜明けの早さは感じず、机上のカレンダーだけが日を替えている。一方、心の和むものでは、大沢さまのきのうのご投稿文にある、お二人様の「冬至」にまつわる会話である。不意を突かれた思いで、私はドキッとした。すぐさまそれを撥ね退けて、こんどは会話の妙に微笑ましさをおぼえていた。なぜならきのうの私は、冬至という言葉だけで、淡々と文章を綴っていたからである。そのため私は、妹さんと大沢さまの会話に度肝を抜かれていたのである。
「これから本格的な冬が来るのよ。冬に至るって書くんだからね」
「昼の長さがだんだん長くなり、春が近くなるのよ」
 冬至にかかわらず季節のめぐりにあっては、私もまたこんな粋な心情を絡めたいものである。
 三っ目には、終末人生の悪あがきみたいなことを浮かべていた。それは、お釈迦様との問答である。お釈迦様は「この世(現世)は穢土(えど)であり、あの世は浄土(いや極楽浄土)」と、説かれ続けている。もちろん私は、この説法は眉唾(まゆつば)ものの嘘っぱちであり、それを信じるバカではない。だけど私には、お釈迦様の嘘を見極めたい思いはある。いや、ネタのない文章のゆえである。
 電子辞書を開いた。【極楽】:「阿弥陀仏の居所である浄土。西方十万億土を経た所にあり、まったく苦患(くげん)のない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法している。念仏行者は死後ここに生まれるという。極楽浄土、安養浄土、西方浄土、安楽世界・浄土など、多くの異称がある」。
 生きて、苦しんでいるけれど、まだこの世のほうがはるかに増しである。どんなに極楽浄土と説かれても、私はあの世に急ぐつもりはない。あの世で、再び生まれたい願望など、さらさらない。なぜならこの世には、現実の楽しみが溢れている。
 きょうの私には、「男女、全国高校駅伝」のテレビ観戦の予定がある。冬至を境に確かに寒い冬に向かうけれど、その先には暖かい春が訪れる。妹さんと大沢さまの会話にパチパチと両手を叩き、私は欲深く冬の寒さをしのいで、暖かい春の訪れを待っている。
 きのうの「ユズ風呂」にあっては、ほのかな香りを堪能した。ちょっぴりの現実のわが極楽浄土であった。きょうの昼間あたりから、日長の兆しが見えるであろうか。夜明けの空は、本格的な冬空へ向かう、胸の透く日本晴れである。