「嗚呼、無情」の文章

 12月10日(火曜日)。このところの起き出し時刻は、みずからが決めているほぼ5時前後で安定している。この前後だと起き立ての気分に焦燥感はなく、さらには朦朧頭や眠気眼も免れる。きのうも書いたけれど、100円ショップで買えば済むことだけれど、わがパソコン部屋には人工の寒暖計の備置はない。もちろん、わがケチのせいではない。いや、わが身体に無償で備置する生来の「体内寒暖計」が、ほぼ十分に購入の寒暖計の役割を果たしているからである。その証しはこうである。きのうの文章の書き出しにあって、私はこう書いている。すなわち、「きのうまでのこの時間帯と比べればかなり寒気をおぼえている」。ところが、のちに気象予報士は、「気象衛星・ひまわり」や気象庁の正確なデータを基に、「きょうは、この冬一番の冷え込み(最低気温)です」と、報じた。私は、「さもありなん」とほくそ笑んだ。
 きのうのこの時間帯の冷え込みは現在は緩んでおり、寒気に震えることなくのんびりと文章を書き始めている。しかし一方、心中ではネタ探しに大童(おおわらわ)である。すると、なさけなくも、こんなネタが浮かび始めている。「ひぐらしの記」の終焉へ向かってはこれまで、脅かされる心境の変化のままに、こんなフレーズ(句)を連ねてきた。先ずはもはや黄昏(たそがれ)、続いては風前の灯火(ともしび)、そして直近では「もう潮時、潮時」と、叫んできた。すると現在は、エンスト(命の故障)と言えるかもしれない。実際にはわが脳髄は、確かな「生きる屍(しかばね)」状態にある。
 子どもの頃に見ていた親戚の大工さんは、鑿(のみ)や鉋(かんな)、また槌(つち)が無ければ、「鶏小屋」や「馬小屋」だって作れず、お手上げにあった。大工さんの状態をわが文章書きに映すとそれは、語彙の忘却はにっちもさっちもいかない状態にある。この状態を寸止めするために私は、大慌てで語彙にまつわる生涯学習の再始動を試みている。ところがもはや、「すでに遅し」の状態にある。すなわち私の場合は、語彙の忘却に遭遇すれば文章は書けない。ところが幸いにもパソコンは、わが脳髄の機能不全を補っている。しかし、パソコンを離れてかつてのように手書きを試してみると、語彙の忘却に唖然とするばかりである。漢字にいたっては漢検一級を取りながらも、実際には小学クラス(程度)の漢字さえ書けない状態に陥っている。こんなときは、つくづく哀れである。
 手書き漢字のみならず、文章を書きながら語彙の忘れに遭遇すると、立ち往生を強いられて無駄な時間を費やすことが茶飯事(さはんじ)になっている。今も、用いようと思う言葉が浮かんでこない状態にある。ところがこのころは、いっときの度忘れでは済まなくなっている。書きながら自分自身、こんな文章はなさけなく、尻切れトンボをも恥じずに、ここで書き止めである。ああ無常とは言えず、「嗚呼、無情」の文章、と表題を付けよう。わがなさけない心情を笑うかのように夜明けの空は、かぎりなく無垢(むく)の蒼い日本晴れである。「ひぐらしの記」の絶えは寸前にある。