12月9日(月曜日)。壁時計の針は5時手前を回っている。パソコン部屋には、寒暖計の備値はない。ゆえに寒暖は、もっぱらわが体温に頼っている。だから、現在の度数を知ることはできない。しかし、寒暖の程度は知ることができる。すると現在は、きのうまでのこの時間帯と比べればかなり寒気をおぼえている。一方、この時季を鑑みればこれまでは、例年と比べて暖かい年の瀬ではないだろうか。とりわけこのところの昼間は、暖かい日が続いている。寒がり屋の私にとっては、これだけで人様からのプレゼントなどまったく要らずで、十分にうれしい天からの授かりものである。
きのうは『休めばいいのに、書いてしまった』という、書き殴りの文章にたいして、思いがけなく大沢さまからうれしいコメントをいただいた。おかげで、たちまちわが拙い文章に綾と箔がついた。これこそ、人様から賜る特等のうれしさであり、その証しには不断の草臥れ儲けは吹っ飛んで、効果覿面に疲れが取れたのである。感謝感激とはこんなときに用いてこそ、素敵な日本語の証しである。
コメントの応援を得て図に乗った私は、昼下がりから文章どおりの買い物行動を実践した。大沢さまのコメントに加えて、仲冬の空も満天にこの時季特有の蒼濃い日本晴れを彩なして、わが買い物行動を後押した。私はいつもどおりに最寄りの「半増坊下バス停」にあるベンチに腰を下ろして、ひとり巡り来る「大船行きバス」をしばし待っていた。このとき一陣の風が吹いて、見上げる日本晴れを背にして視界に、「落ち葉しぐれ」が吹き舞った。まさしく、番外編の美的風景だった。番外編に思えていたのは、桜の季節の「桜吹雪」を心中に浮かべて、その風景と比べていたせいだった。確かに、桜吹雪も変わらぬ美的風景ではある。
しかしながら「落ち葉しぐれ」の風景は、はるかに「桜吹雪」を凌いでいた。あえてこの訳を書けばこうである。一つには仰ぐ背景が冬空特有に、蒼くそして深い日本晴れだったからである。そして一つには、落ち葉しぐれには桜吹雪につきまとう切なさを感じず、ひたすら美的風景に魅せられていたからである。出足好調に私は、気分良く巡ってきたバスに乗車した。わが買い物の街・大船(鎌倉市)は、きのうは日曜日と歳末風景の重なりのせいなのか、いつもにもまして買い物めぐりの人出が溢れていた。
人出の多さに遭遇して私は、心中にはこんな思いを浮かべていた。すなわちそれは、ネットによる買い物旺盛の時代にあってもやはり人は、現物を目で見て手に取り、好みや値段を比べながらの買い物行動は必然なのであろう。確かに、現下の物価高にあっては、値段を見ての嘆息は免れない。けれど、そのぶん工夫を強いられる、買い物行動の楽しみもあるのであろう。
私の場合は、ずばり買い物行動に価値を認めている。その一つは、人様にまみれることによる認知症防止行動と言えるものである。これに付随することでは、ほかにも多々ある。いや、一つに集約すれば動きのない茶の間暮らしにあっては、買い物行動はそれに代わる惚(ぼ)けや、ふやけた脳髄を緊張させる価値がある。具体的には歩く行動、好みの品物を選び、それらにかかわる値段の比較、さらにはレジに立つお顔馴染みの女性との一言会話の楽しみがある。レジに立つ多くの中年および高年の人たちは、持ち時間単位の今様の非正規働きの人ばかりであろう。ときには故障もする無機質のレジ機に向かって、無言でレジを打つだけであったり、あるときは「カスハラ」(消費者は王様と勘違いする者の虐め)に出遭うこともあろう。だから一声会話、すなわち「こんにちは。いつも大変ですね」「ありがとうございます。お元気で……」。相身互い身、一瞬の疲れ癒しにはなる。
きょうも長い文章を書いてしまった。一面、書き殴りの文章の妙味である。夜明けが進んで、胸の透く真っ青の日本晴れの朝が訪れている。
仲冬の日本晴れの朝
