魅せられて…

 12月5日(木曜日)。夜長の季節にあって、目明きのままに悶々とする睡眠を終えて、起き出している。熟睡に落ちていたのは、どれくらいの時間だっただろうか。そのことを浮かべればぞっとするほどに、短い時間だったことだけは請け合いである。このところの冒頭の常套表現を懲りずに用いれば現在、壁時計の針は4時30分あたりを回っている。定時と決めている(5時)よりいくらか早く、そのため執筆に際し焦燥感は免れている。これまた飽きずに何度も書いているけれど、執筆における制限時間の箍(たが)を外して以降の文章は、無駄に矢鱈と長くなっている。もとより、自己抑制すべき案件である。一方、このことでは、のんびりと書ける幸運に恵まれている。同時にそれが高じて、書き殴りの文章を綴っている。これまた自分自身のことゆえ、自ら正すべきものである。
 この季節、山際に居を構えているせいで日々、季節特有の幸不幸の日暮らしにさずかっている。幸運は居ながらにして、紅葉の風景を眺めていることである。そして不運は、道路の掃除へ向かうたびに落ち葉の量の多さに手を焼いて、頭上の木の葉の残り具合を気に懸けなければならないことである。しかしながら共に、この先大晦日あたりまでで時間切れとなり、山や周辺はしだいに冬枯れの景色を見せ始めてくる。おのずから道路の掃除は、わが日課から遠ざかる。一面、うれしい悲鳴だけれど、半面、冬の寒さがつのり始めて、文字どおり悲鳴をこうむることとなる。起き立てにあってネタのない私は、常に長い序文を書きながら、心中にネタの浮き出しを待っている。すると、おのずから長い文章になる。平に、詫びるところである。
 さて、きょうの起き立てにあっては、心中でこんなことを浮かべていた。そして、そのことを書こうと思っていた。無礼をも省みず以下に記すと、これらのことである。今は亡き、お父様、お母様、弟様。そして、常に元気いっぱいの大沢さまや妹様たち。すなわち、総じて大沢さまご家族のご多能ぶりである。ご家族の多能ぶりは、書画、文章、写真、陶芸、なおそのほかに溢れている。それらを「玄人(くろうと)はだし」と言うには失礼きわまりなく、ずばりいずれにもプロフェショナルの領域にある。卑近なところで私は、ブログ『ひぐらしの記』を開くたびに私は、季節に応じて入れ替わる掲示板上の絵画や写真に驚嘆し、そのつど「魅せられて……」いるのである。先日までに掲げられていた写真は、晩秋の林を彩るのどかな木漏れ日の写真だった。写し出された光景のあまりの美しさに私は、そのときそのことを書こうと思っていた。しかし私は、そのチャンス(機会)を逃してしまったのである。この写真に魅せられていたのは、木漏れ日のおりなす「晴れと影」のコントラスト(対照)の見事さだった。この写真に代わり現在は、冬の季節に合わせて、文字どおり寒々しい冬日の絶景である。この写真がその光景を写し出しているのは、地べたを薄く覆う雪とそれを囲む周囲の風景、これまたコントラストの素晴らしさである。写された人は多能きわまりない、プロの写真家を目指されていた弟様なのか、それとも大沢さまご自身なのか。知る由ないけれど、唖然とするほどに現在、私は日々癒されている。わが過ちなど厭わず起き立ての私は、大沢さまご家族の多能ぶりの一端を書きたかったのである。
 ネタにありつけて現在の時刻は、まだ5:50と刻まれている。ゆえに、夜長にあっては夜明け模様を知ることはできない。無礼のついでにいや省みず私は、大沢さまにたいし、掲示板上における先回と今回の写真を『ひぐらしの記』にも、並べて掲げていただきたいと、願うところである。これすなわち、現代文藝社のホームページで、「ひぐらしの記」を読んでくださっている人たちへの、わがお礼返しにしたいためである。胸に閊(つか)えていたことを書き終えて、朦朧頭と眠気眼は、一掃されている。夜明けて、朝日が輝いていれば万々歳である。