12月3日(火曜日)。起き出して来て、パソコンを起ち上げた時刻は5時ちょうど、みずから定時と決めている、まさしく定刻にある。一方で私は、こんな思いをたずさえて起き出している。起き出して来て、「ひぐらしの記」を書かずに済めば、どんなに寝起きの気分は楽であろうか。「ひぐらしの記」を書き始めて以降のわが寝起きには、安寧気分はなく常に、厭(いや)気分に脅かされている。もちろんそれは、ネタ探しや文章自体に呻吟をこうむっているせいである。いや、実際には広く、わが生来の凡才のせいである。生来(生まれつき)・先天であれば、もはや後天におけるちょっぴりの鍛錬や学習など、芥子粒(けしつぶ)ほどにもならない。換言すれば、わが凡才は「つくづく哀れ」である。
わが生涯学習とは然(さ)にあらず、定年後の期限付きである。顧みれば、わが人生行路における四分の一(20年)ほどにすぎない。だから、わが生涯学習は、端(はな)から嘘っぱちである。確かに私は、短い期間とはいえ「語呂の良い生涯学習」という言葉を用いて、「語彙(ごい)の復習と新たな学び」をそれに掲げてきた。そして、わが凡才を助ける仲間には、分厚い国語辞典にすがった。
ところが私には生来、三日坊主と意志薄弱という、ダブルの性癖(悪癖)がこびりついている。これまた後天にあっては、どんなに藻掻き悶えても、正し直せるものではない。これらの悪癖が相まって、定年後を限りに掲げていたわが生涯学習は、あえなく途中で、頓挫の憂き目をみたのである。こののちは新たな学習など望めず、なけなしの語彙の忘却に見舞われてゆくばかりになった。これまた凡才、もとよりいちど躓(つまず)いた事柄の修復は叶わない。それなのに心中には、焦燥と後悔ばかりが弥増(いやま)してくる。これまた一言に置き換えれば、「身の程知らず」の現象である。もちろん私は、この現象に日々懲りている。すると、だれもが知る「後悔は先に立たず」、あるいは「後の祭り」や「年寄りの冷や水」などの成句まみれになる。これまた言葉を置き換えれば、いまさらどうにもならない「悪あがき」にすぎない。しかし私は、実のならないことは承知の助で、二日前からかつての国語辞典を頼りにして、生涯学習の再試行を開始している。きょうはその三日目になる。三日坊主の再現が危ぶまれるところである。
確かに、今回の再試行にあっては、かつてのような意気は上がってない。なぜならそれは、新たな語彙を学んでも、それを使ったり、用いたりすることのない、命の短さゆえんである。何を書いたかわからない支離滅裂の文章を書いてしまった。ゆえに、平に詫びるところである。
薄く、曇り空の夜明けが訪れている。「ひぐらしの記」を書くかぎり、わが寝起きの気分に安寧はない。書き終えれば、ちょっぴりホッとするだけである。
寝起きの「悪あがき」
