きょうは「七五三」(十一月十五日・金曜日)。曽孫がいれば「千歳飴」を提げて、お宮参りの愉しみがある。それは叶わずかつての私は、綺麗に着飾った親子連れが楽し気に参道を歩く姿を眺めるために、「鶴岡八幡宮」(鎌倉市街)へわざわざ出かけていた。歩いてそこへ向かうわが足は、初冬の木漏れ日を浴びて、近場の「天園ハイキングコース」の山中道を、ときおり小走りして踏んでいた。まだ、年齢に翳(かげ)りのない頃にあっての、楽しく、懐かしい思い出である。
今やわが年齢は八十四歳、この年齢にあっては寸刻を空けずにいろんな思いが、その多くは様々な悩みごとがこびりついている。行く年くる年、それはわが命果てるまで、増幅するばかりである。喜ぶべきかそれとも悲しむべきか、それを拒んでくれるのはわが命のジエンド(終わり)である。医者に掛かればわが浅い眠りには、珍奇な病名がつくのであろうか。そうであれば、「くわばら、くわばら……」である。
きのうを超える浅い眠りを被り、早い起き出しを食らっている。ゆえにいまだ、きょうの夜明けの空模様を知ることはできない。しかし、このことは記すことができる。それはきのうの気象予報士によれば、きょうは雨の予報である。浅い眠りの現象には、朦朧頭、眠気眼、さらには精神錯乱状態がある。すなわち、三つ巴の悪の報(むく)いである。そんな混乱のせいなのか、心中に恥じるべきことが浮かんでいる。もとより、わが文章にたいし、人様から誉め言葉をさずかったり、それを強請(ねだ)ったりすることはできない。そうであればないものねだり、あるいは空威張りに、ときには嘘っぱちにも自惚(うぬぼ)れてみたくなる。いや、空虚な嘘っぱちであっても自惚れは、「ひぐらしの記」の継続のためには、確かな必要悪の原動力を為している。逆に言えば自惚れがなければ、こんなに苦衷や呻吟まみれを被り、書き続けることもない。
もとより、人様が認めるものではなく、自分だけが感じている自惚れの因をちょっぴり記すと、こうである。これまで観ていたNHKテレビにおける朝の番組(七時台)を葬り去り、執筆にかかわる制限時間の箍(たが)を外して以降は、執筆にあって心に余裕が持てている。するとこの効果には、それまでの走り書きや殴り書きを遠のけて、いくらかわが意に適(かな)う文章にありついている。もちろん、人様の目には代り映えはしないけれど、わが意中には少しばかりの満足感をおぼえている。すると、文章の出来栄えはともかく、このことがいっとき、自惚れを恵んでくれるのである。
きょうは恥を晒しても、独り善がりにこんな文章を書いてみたくなっていたのである。きょうは自惚れることはご法度(はっと)の実のない文章である。だけど、頓挫を免れたことをちょっと自惚れて、「ひぐらしの記」は、あすへ繋がりそうである。まだ薄暗い夜明けは、大空から雨を降らしている。思いがけなく、早い書き上げで、朝飯前に数十分、寝床へ就けそうである。