十一月十六日(土曜日)。世間の人にあってはほぼ定時、いやまだ早く、土曜日にあってはいまだ、白河夜船を貪っている人もあろうか。私の場合はかなり遅い目覚めと起き出しである。ところが睡眠時間は浅く、起き立ての気分は憂鬱状態にある。このせいでやっとこさ、文章を書き始めている。だから、どこで途切れるか、あるいはどこまで続くかなど、みずからのことながら知る由ない。こんな気分ではもとより、きょうの文章書きは慎むべきだったのかもしれない。冒頭にあって、恥じて深く詫びるものである。
八十四歳、このわが年齢は、いっときだって脳裏から離れることはない。確かに、いまだに生存の証しとはいえ、つらい仕打ちである。実際には「生きる屍(しかばね)」状態にある。卑近なところでは、こんなことで心中は困惑の極みにある。人生の晩年を生きる私にとっては、生きて就寝にありつき、深い眠りに落ちて、再び目覚めるときこそ、パラダイス(楽園、桃源郷)である。ところが現在の私には、熟睡そして安眠など、夢まぼろしになりかけている。もとより睡眠こそ心が安らいで、無償の快楽を得るはずである。ところがさにあらず、現在の私は、その快楽を奪われている。すると、その主犯は浅い眠りである。なんだかこの文章は、きのうの文章の丸写しになっている。だったらやはり、ここで止めるべきなのかもしれない。その決意が鈍れば、この先へいたずらに続くかもしれない。これまた、きのうの言葉を繰り返すと、「くわばら、くわばら……」である。そんなこと意に介せず続ければ、やはり浅い眠りを為すものを浮かべて、書き添えなければならないであろう。
浅い眠りを為すものは、総体的には終焉が間近に迫る、わが命の悪あがきである。ところがその現象は、こともあろうに最も心が安寧になるはずの睡眠時に見舞われている。すなわち、それらが浅い眠りの根幹を成している。しかしながら、それらに順番をつけることはできなくて、醜悪なことではほぼ一様である。すなわちそれらは、悪夢、頻尿、そして終活を浮かべての困惑や煩悶である。すべては、年齢による祟(たた)りである。加えて、昨夜もまた、十二時近くに就寝した。その主因は、WBC(野球の国際試合)のテレビ観戦である。昨夜の試合は、中日ドラゴンズのホーム球場(バンテリンドームナゴヤ)から移して、異国・台湾(台北ドーム)だった。このため、時間のずれもあって試合時間は、おのずから日本における試合より、一時間ほど遅く終わった。試合自体は侍ジャパン対韓国代表チームであり、結果は6対3で日本チームが勝利した。そしてきょうの試合は、侍ジャパン対地元・台湾代表チームである。台湾チームは強いため、きのうの韓国戦を凌いで、熱戦が予想される。挙句、テレビに釘付けになる私は、過日のオーストラリア戦、きのうの韓国戦、そしてきょうの台湾戦に続いて、つごう三度の遅い就寝になりそうである。もとよりこちらは、わが意を得たものであり、そのせいで浅い眠りにあっても、恨みつらみはない。
恨みつらみつのるのは、年齢の祟りから生じている浅い眠りのしわざである。「ひぐらしの記」を書かなければ、こんな野暮天なことなど書かずに済んだ。一方、それを続けるには、こんなことまで書かなければ継続はあり得ない。嗚呼! 恨めしや「八十四歳」。初冬の朝は、わが老いた気分を癒す、のどかな日本晴れである。