「行く夏」そして「来る秋」

8月24日(土曜日)。夜明けの空は胸の透く日本晴れで、天高く輝いている。夏の高校野球の決勝戦は、京都府代表校「京都国際高校」が、東東京代表校「関東一高校」を下し、初優勝で王座に就いた。夏の高校野球「甲子園大会」が終われば、いよいよ季節は夏を遠ざけて、日々秋色を深めてゆく。山の景色は濃緑を薄めて、少しずつ黄色や紅色を帯びてくる。セミは絶える命を惜しんで、必死に泣きじゃくる。「暑い、暑い」と言いながら、矛盾するかのように、私は「行く夏」を惜しんでいる。しかし、悲しむことはない。なぜなら自然界は、こののちには「秋」という、四季の中で最も好季節と謳われる、「時」を回して来る。だけどやはり恐れるのは、季節特有の地震と台風とのめぐり合わせである。一方、現下の日本社会の関心事の一つには、野放図な人間模様に取りつかれている。すなわちそれは、自民党の総裁選、そして立憲民主党の代表選における、「われもわれも…」と、出たがる議員の多さである。議員になればわが身の器を顧みず、図に乗ってしまうのであろうか。見苦しさ、この上ない有様である。ところが一方、日本国民の卑近の関心事は、わが身に堪える諸物価の高騰やコメ不足などがある。高気温、地震、台風の恐怖は、私生活を脅かし続けている。なんだか、政治家と国民の間には、大きな生活感の齟齬があるようである。こんな野暮なことをめぐらすのは愚の骨頂であろう。なぜなら、季節のめぐりに安んじていれば人間は、それなりに愉快である。私の場合、夏の終わりかけにあってとうとう、この夏初めて大好物の西瓜にありついた。西瓜の買い物にあってかなり焦りそして渋々、丸玉を四分割に輪切りしたものを買った。本当であれば丸玉を買いたいけれど、重たくて持ち帰れず、輪切りで我慢した。挙句、西瓜はわが行く夏の打ち止めを演じた。一日持ち越して冷蔵庫校に冷やしている西瓜には、愛惜(いとお)しさつのるばかりである。それなのに、餓鬼のごとく涎垂らしてむしゃぶりつくのは、わが浅ましさであろうか。「行く夏」そして「来る秋」、人間は身の程に応じて、自然体こそ安楽であろう。涼を含んだ風は、起き立てのわが肌身を和み癒している。