3月18日(月曜日)。きのうの体調不良とそれにともなう不安を持ち越して、起き出している(4:52)。古来、健康状態を言うとき、「年(年齢)相応」ということばがある。病医院へ行けば、すべてにわが年齢(83歳)は、このことばに当てはまる。「年(年齢)のせいですね」という医師の宣告は、「診断」と言えるのだろうか。へそ曲がりの私は、このことばを聞くたびに、そんな思いに駆られている。なぜなら、それぐらいは通院するまでもなく自己診断できる。自覚症状をたずさえて通院しているのだから、年(年齢)のせいだけでなく、何らかの病根があるはずである。確かに、年(年齢)のせいだけであれば、それに越したことはない。一方、年(年齢)のせいの病であれば、もはや治しようのない「不治の病」の宣告である。
このたびのわが体調不良は、自己診断によれば現在服用中の薬剤の副作用のせいである。こんな自己診断をたずさえてきょうの私は、住宅地内にある掛かりつけの「S医院」の外来患者なるつもりである。ちょっぴり、新コロナへの罹患の前駆症状かな? と、思うところがあった。けれど、今やこの自己診断は打ち消されている。なぜならそのことには、体温を測るまでもなく平熱と思えているからである。それゆえにわが確かな自己診断は、服用中の薬の副作用一辺倒である。
きょうの主治医の診断では、いつになく異状を自覚していることから、「年(年齢)のせいですね」とは言われそうにない。できれば、その言葉を願っている。「確かに、服用中の薬の副作用です。今、服んでいる薬は、服むのを止めてください。違う薬に替えましょう」。すると、私はこう問うて、お願いするであろう。
「先生。まだ違う薬を服んだほうがいいのでしょうか? 血液検査(採血)をお願いします。朝御飯は抜いて来ています」
年(年齢)のせいでもなく、服用中の薬の副作用のせいでもなければ「さあ、たいへん!」。
きょうもまた私は、休めばいいのに書くまでもないことを書いてしまった。胸(心臓あたり)の痛みは、全身をぐるぐる回っている。やはり主治医の診断は、「年(年齢)のせいですね」、これこそ最も望まれるものである。まかり間違って、「大きな病院へ、紹介状を書きましょう」と言われれば、この文章は余興では済まされない。挙句、帰り道には気分が沈んで、ヨロヨロヨタヨタとよろけ足になるであろう。
気分の滅入る夜明けが訪れている。身体に、寒気はまったく感じない。だけど、心中はブルブル震えている。