引用文を撥ね退けた「わが文章はせつない」

 2月27日(火曜日)、まもなく夜明けが訪れる。季節はどんな夜明けを恵んでくれるであろうか。できればこのところの天候不順を、正規軌道へ戻した夜明けであってほしいと、願っている。春近しにあっては、けして欲張りの願望ではないはずである。きのうはこのところの雨は止んだ。ところが、ゴミ置き場へ向かうと、猛烈な風が吹いていた。一瞬にしてわが体は、冷え冷えになった。これに懲りてこののちは、一日じゅう茶の間暮らしを決め込んだ。
 私は茶の間のソファに背もたれて、窓ガラスを通して外を眺め続けた。山の枝木、持ち主が去った後に取り残されている植栽に立つ白梅と紅梅、そしてわが家の庭中の椿の花々は、日暮れて雨戸を閉めるまで大揺れに揺れていた。日光が時々ふりそそいだ。据え置き型のガスストーブは、絶え間なく熱風を放し続けていた。それでも茶の間は、温まりきらなかった。熱源不足のわが甲斐性無しの証しだったのかもしれない。私は、季節に違わず「早く来い来い、春の暖かさ」を願った。
 わが風邪は治ってはいないけれど、酷くもなっていない。このことで、パソコンを起ち上げている。茶の間暮らしでいつも切ないことは、相対するソファに背もたれている、相身互い身ふたりの日々衰えてゆく姿である。私から見るのは妻の姿であり、妻が見るのはわが姿である。共にもはや、元へ戻ることはない。できればこれまた共に、老いの加速度を低速度に緩めてほしい心地だけである。もとより、叶わぬ願望である。
 生来、私はマイナス思考の塊である。しかしながらマイナス思考とて、思考は生きとし生けるもののなかにあって、人間のみに与えられている特権である。そうだとしたら、恥を晒しても臆することはない。こう自分自身を慰めながら私は、わが人生の晩年を生きている。おのずから、わが人生終末における日常観である。
 大沢さまは「お風邪のようですね。暖かくしてゆっくりお休みください」と、言ってくださった。こんな文章を書くより、お言葉に甘えて、休んだほうが身のためだったようである。ただ、大沢さまは、「体調不良にもかかわらず、ご投稿くださりありがとうございます」と、言ってくださったのである。このお言葉は、箆棒にうれしくて、きょうの励みになったのである。
 夜明けの空は、雨なく風なく晴れて、春の軌道へ戻っている。あと二日を残して、春3月が訪れる。