人間はもとより、生きとし生けるものにとって、いのちを長らえることは、まさしく寸刻も気を緩められないサバイバル(生き残り)の闘いである。このたびは地震だけれどほかの天災や、さまざまな災害に見舞われるたびに私は、こんな思いにとりつかれている。たまたま今回は新型コロナウイルスだけれど人のいのちは、常にさまざまなウイルスに脅(おびや)かされて、挙句には突然の病、あるいは死をこうむっている。これらの災難にもとより身体を蝕(むしば)む病、さらには避けて通れない事故や事件などの人災を加えれば、人のいのちはこれらの間隙を縫って、どう生き続ければいいのか。ただただ唖然とするばかりである。
翻(ひるがえ)って、人間以外の生きものの生き難(にく)さを慮(おもんぱ)れば、最大の難敵(外敵)に位置するのは、日夜捕獲の鍛錬を積んだ人間がいる。人間は農業、漁業、猟師、ほかにもさまざまに生き物を懲らしめる生業を立てて、みずからのいのちを生き長らえている。わが子どもの頃に農業を営んでいたわが家は、田んぼや畑に効きめの強い薬剤をまき散らす(散布)ことは、金のかかる大仕事だった。早苗の頃にあって私たち学童には、蛾虫を捕えて小瓶に入れて、登校時に「何匹」と、報告する宿題が課せられていた。私は登校前の朝まだき苗床に分け入り、数えて蛾虫を小瓶に入れていた。村人の納屋には、常に殺虫剤が買い置きされていた。もちろん、害虫退治のためである。
現在、わが家の庭中の椿の木には花の蜜を吸いに、タイワンリスやヒヨドリ、はたまたシジュウガラとメジロそしてコジュケイがやってくる。後者は「おいでおいで」の歓迎気分だけれど、タイワンリスとヒヨドリには、生け捕りの罠(わな)をかけたいところである。
子どもの頃、確かにヒヨドリにあっては、山中に手作りの罠をかけて生け捕り、揚揚(ようよう)気分で持ち帰り、羽を毟(むし)り焼いて食べていた。わが家近くには、おとなの「鉄砲撃ち」の名人がいた。村道でその人に出会うと怖くて、わが身は縮んだ。隣の小父さんは、内田川に広い網を投げ込む「網打ち」を日々の趣味にされていた。私を含む隣近所の子どもたちは、内田川の魚取が最大かつ最高の楽しみだった。
魚、鳥、益虫および害虫、単なる虫けら、そして野生動物、すなわち挙(こぞ)って人間以外の生きものにとっては、人間ほど直接的にみずからいのちを死に至らしめる外敵はいないはずである。ところが、人間以外の動物にかぎらず植物もまた、日々人間に脅かされている。「生け花講習会」などでは、人間の手が持つハサミで、競い合ってニコニコ顔で仕上がり具合を愛(め)でながら、その過程にあってはだれもが思う存分ズタズタ切りの無慈悲さである。村中には育ち盛りの枝葉を、容赦なく切り落すことを業とされる、樵(木こり)の人もいた。みずからのいのちを生き長らえるためには、人間の浅ましさは底無しである。みずからが生き長らえるためだから、綺麗ごとは言いたくないけれど、たまには懺悔(ざんげ)をしてもいいと思えるほどの罪作りである。
そうは言ってもやはり、私の枕元にはムカデ殺しの強力殺虫剤は欠かせない。結局、人間以外の生きとし生けるものにとっては、人間こそ天変地異の恐ろしさを凌ぐ、最大の外敵であろう。ちょっぴり、済まないと思うだけで、人のいのちは、ほかのいのちを蝕んで、生き長らえなければならない。人間は天敵に襲われ、みずからも天敵になる。いのちに共存はなく、殺し合いである。