雪の朝にまつわる、ふるさと慕情

 「立春」明けの2月5日(月曜日)、現在のデジタル時刻は2:40と刻まれている。寝床から抜け出してくるやいなや私は、頭上の蛍光灯から垂れ下がる一本の細紐を引いた。蛍光灯特有のしばしの間をおいて、パッと明かりがついた。どうやら命は断たれずに、きょうの始動にありついている。すぐには机を前にした椅子には座らず、パソコンも起ち上げないままに窓際に佇んだ。厚地の布でできた茶色のカーテン、目の粗い薄地の白いカーテン、私は二枚重ねのカーテンを撥ね退けて窓ガラスを開いた。一基の外灯が灯る舗面には、今のところ雨も雪も落ちていない。風の音もなく、目に留まる木の葉に、揺れはまったくない。外気は、夜の静寂(しじま)状態にあった。わが身体に、寒気はさほど感じない。きのうの気象予報士は、きょうとあすにかけて、雨と雪の抱き合わせの予報に大わらだった。予報には雨だけで済むところがあり、雪だけが降るところもあった。文字どおりの抱き合わせで、雨のち雪のところもあった。大まかに言って、きょうの関東甲信地方は降雪予報である。
 ところが気象予報士は、東京都心(23区)にあっては数値をもって、2、3センチの積雪が見込まれると予報した。わが住む鎌倉地方の場合は、どれくらいの積雪になるのだろうか。この冬、三度目の降雪予報である。ところが幸いなるかな! 二度の降雪予報は外れた。「二度あることは三度ある」ゆえに、三度目の降雪予報もあてにはならない。宝くじなどとは異なり、外れて人が喜ぶものの筆頭は降雪予報である。とりわけ、おとなたちの多くは降雪予報にかぎり、外れて悲しむ者はいない。降雪予報が外れてがっかりするのは、漸減傾向を深めつつある子どもたちの一部であろう。一部と限定表現を用いたのは、雪だるま、雪滑り、雪合戦などの楽しみを目論む、子どもたちがいるからである。
 子どもの頃の私には、確かにこれらの楽しみに加えてさらに、雪降りの朝にはこんな楽しみが待ち受けていた。それはすなわち、裏戸を開けて木の葉に積もった新雪を大きなドンブリに掬い取り、それに砂糖をかけてにわか作りの「かき氷」を鱈腹食べることだった。寒空の下、一度や二度では飽き足らず私は、何遍も雪掬いに出向いた。まさしく餓鬼食い、無償で好きなものにありつくと、寒気さえ厭うことはなかった。白無地一辺倒で出来立てほやほやの新雪づくりのかき氷は、炬燵に足を入れて全身丸まって食べた。このときの私は、分厚い練りの丹前を身にまとい、まるで寒気を嫌う猫のように膨れていた。雪の朝に出遭っていた、今や童心返りの懐かしい思い出の一コマである。
 日本列島にあっては南の地方にあたる熊本県にあって、山あいの片田舎に位置するわがふるさと(当時の鹿本郡内田村、現在は山鹿市菊鹿町)には、一冬に三度くらいは視界白一色の雪降り光景が訪れていた。当時、冬の間のふるさとの寒気の強さは、現在の鎌倉地方とはまったく比べものにはならない。その証しには釜屋(土間の台所)に置かれていたバケツには、しょっちゅうバケツが壊れるほどに氷が張りついていた。わが家の裏を流れている「内田川」から分水を引き込んで、水車を回して生業を立てていたが家の場合は、村中ではほとんど見られない光景を常に目にしていた。それは水路に設けられていた「さぶた」(手作りの水量の調節機)付近に垂れ下がる、大小長短の「氷柱(つらら)」の光景であった。氷柱とは文字どおり「氷の柱」である。寒気に身震いすることでは私は、雪降り光景より、氷柱が立ちあるいは垂れ下がる光景のほうにはるかに強く感じていた。確かに、霜柱が立つ朝にも強い寒気を感じていた。それでも寒気は、雪降りの朝、霜柱立つ朝共に、氷柱が立ち垂れ下がる朝にはとうてい敵わなかった。ところが餓鬼の私は、氷柱を折っては手にとり、震えながら舐めたり、ガリガリ噛んだりした。こちらは「アイスキャンデー」代わりだったけれど、砂糖まぶしにはできず、「新雪づくりのかき氷」のような楽しみにはありつけなかった。それでも、懐かしい思い出づくりの一役にはなっている。
 三度目の降雪予報にあっての、今や懐かしく当時を偲ぶだけの「雪の朝にまつわる、ふるさと慕情」である。未だ外気は真っ暗闇で、降雪予報の当たり外れを知ることはできず、身体は寒気に冷え始めている。