1月末日(31日・水曜日)。現在(デジタル時刻2:42)、寒気はこころもち緩んでいる。気象予報士の予報によればきょうの昼間は、春日のように暖かくなると言う。庭中の梅の花は健気に綻び、寒椿は凛々しく咲いている。物心ついて以降こんにち(83歳)にいたるまで、私は見栄えのする「梅にウグイス」の光景を願ってきた。ところがそれは叶わずじまいで、あの世へ旅立つことになりそうである。ところが一方、「椿にメジロ」は、この時期にあっては日々眺めて、私はその光景を十分に堪能している。メジロはウグイスより、はるかに美形でなおかわいらしい小鳥である。そしてその色合いは、椿の紅い色とメジロの萌黄色がコントラストに映えて、確かに見た目にもこよなく美景である。メジロの囀りはウグイスに負けるけれど、そのぶん風姿ははるかにメジロが勝っている。だからあえて、仮想の「梅にウグイス」など望まなくても、現実の「椿にメジロ」で十分、私には絵になる光景である。私はその光景を茶の間のソファに背もたれて、日々眺める幸福者である。老いの身にあっては、いくら感謝しても、感謝しきれないひとときである。歳月や季節は脱兎のごとくとは言えないまでも、まるでカエルのごとくピョンピョンと跳ねてめぐってゆく。つれて、寒気が遠のくことは、素直に喜ぶべきことなのか。いや、不断の思いとは異なりきょうにかぎれば、老いの身には恨めしいつらい仕打ちである。新年(令和6年・2024年)になって早や、きょうで1年・12か月のうちのひと月が過ぎる。まさしく、「光陰矢の如し」である。老いの身の私は、またまた嘆息しきりである。結局、私は何かにつけて嘆きながらまもなく、この世から身を隠すこととなる。そうであれば私は、悪あがきあるいは「年寄りに冷や水」と、嘲られようとも無為にあの世へ行きたくはない。私は、再び一念発起を企てた。ところが、わが一念発起などしれたものの、蚊の鳴く程度のものである。実際には新年を機にして、二か月余絶えていた文章の再始動を試みたにすぎない。ところがこの間は、1日も空けずにきょうの1月末日へ辿り着いている。怠け心をしばし忍んで、われながらあっぱれである!。一方では、もとより叶わぬことだけど、カレンダーの日めくりは、きょうで打ち切りにしてほしいという思いもある。しかし、歳月はあすから2月へめぐり、季節はほどなく春へ移ってゆく。ところがわが文章は、それらに連れられて一緒に進むとはかぎらない。なぜなら、三日坊主と意志薄弱共に抱き合わせのわが性癖(悪癖)にあっては、常に頓挫と挫折の憂き目が付き纏っている。生身、いやわが老いの身にあっては、すでにへこたれている。それゆえに私は、きょうがわが文章の途絶え日、すなわち命日にならんことを願っている。いや、思いあがって強気に、命日をくつがえし、この先への続行を決意している。しかし、まったく心許ない決意である。現在(3:41)、ぶり返しはなく、寒気は緩んでいる。素直に、喜ぶべきか。いややはり、老いの身にはすんなりとは喜べない、歳月と季節の早めぐりである。