1月30日(火曜日)。83歳のわが身には、「また、あしたね…」という、言葉は存在しない。この一行はきのうの文章で、きょうへの継続を恐れて用いたものである。ところがどうにか、パソコンを起ち上げて私は、(さあ、書くぞ!)という、心構えと態勢を講じている。時々、怠け心に襲われてわが文章は、長いあいだ書いて来ても未だに、ルーチンにはなり切れていない。悔しいと言うより、はなはだ残念無念である。定年後を見据えて私は、六十歳間際から文章の手習いを始めていた。そんなおり、突然の私からの電話を通して、懇意を得ていた大沢さまは、あるときこう言ってくださった。「前田さん。何でもいいから書いてください」。心根の優しい大沢さまは私に、手習いの実践の場を与えてくださったのである。私は「何でもいいから」というお言葉にすがりつき、おそるおそる書き出した。思いがけなくすぐに、わが専用のブログが現れ、ブログには『ひぐらしの記』と、命名されていた。たちまちわが心中には、うれしさと恐ろしさが同居した。同時に私には、(すぐには止められないな…)という、気負いと責任感が芽生えた。のちにブログには、竹馬の友・ふうちゃんが撮った、ふるさと「内田川」の情景が添えられた。ブログを開くたびに私は、しばし郷愁に浸った。同時に私には、「もはや『ひぐらしの記』の頓挫はできないな!」という、思いがいや増したのである。過去文の繰り返しを長々と書いたけれどここまではまた、わが心中になんらかのネタを呼び出すための序章にすぎない。起き立ての私は、いつものようにネタ探しに躍起である。すると、ようやく浮かんできたのは、書かずもがなの碌でもないネタもどきである。熟語「生涯」の成り立ちは、文字どおり「生まれて、涯てる」までの期間である。これに付き添う主語は「命」である。だから生涯とはズバリ、命の存在する期間である。それゆえに命の期間は、しばしば一筋の道に例えられる。換言すれば命の歩く道は、これまたズバリ「人生行路」である。人生行路は、道々に棘(トゲ)ある「茨道」である。赤ちゃん、幼児、児童、生徒の頃は、親に庇護されて歩くゆえにすがれば、どうにか歩けるところがある。ところが、ここを過ぎれば独り立ちにともなう、いくつかの茨道、あるいは分かれ道に遭遇する。先ずは就活、次には婚活、そして生計を立てる文字どおりの生活、人生の終末にあってはこれまた、文字どおりの終活が訪れる。こんなどうでもいいことを書いて、継続の足しにしている私は、精神異常をきたしているのであろうか。ところが、幸いにも私には自覚症状はない。診断は大沢さま、そしてご常連の人たちへ委ねるところである。なんだか、心侘しい夜明けである。