ひぐらしの記 再びの送稿テスト 六月十九日(日曜日)、きょうもまた私は、再びの送稿テストを試みている。そのため、くたびれもうけを避けるため、おのずから長い文章は、自制を決め込んでいる。ただし、夢遊病者の如くにヨレヨレの書き殴りのため、この決意の決着は私自身、まったく不明で... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 送稿テスト 命の終焉近くになってまで、わが身を思い、悩み患うのは、愚の骨頂とは知りすぎている。六月十八日(土曜日)、浅い夜明けの起き立ちにあって私は、わが生涯におけるいろいろ、さまざまな悔いごとを浮かべている。それらの中には生来ゆえに、悔やんでもどうに... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 小さな幸福 六月十七日(金曜日)、梅雨時、すっかりとは明けきれない夜明けが訪れている。おとといの夜、二度寝にありつけず起き出して書いた短い文章は、わが心象に飛んでもない僥倖をもたらした。きょうもまた、二度寝にありつけず、起き出して来たまま書いている。し... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 三つ巴の友愛がもたらした僥倖 神様は、初詣、賽銭、あるいは御百度を踏んで、いくらお参りしたり、願ったりしても、爪の垢ほどのご利益(りやく)さえ恵んでくれない。これに比べて現人神(あらひとがみ)の友人は、祈ったり、強請(ねだ)ったりなどしなくても、わが知らぬところでさりげ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 ようやく叶えた、短い文 六月十五日(水曜日)、二度寝にありつけず、仕方なく起き出してきた。「丸山宏子さん」は掲示板へのご投稿はないけれど、『流星群』では親しい投稿仲間である。宏子さんの旧姓は「松本」である。渕上先生の名簿帳の点呼にあっては、わが名・前田の次に、「松... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 思い出の「わっこ(アマガエル)物語」 六月十四日(火曜日)、梅雨の合間らしい、今にも降り出しそうな雨空の夜明けを迎えている。起き立の私は、きょうこそ短い文章で閉じたい思いに駆られている。しかしながらいつもの殴り書きゆえに、この決意の結末は、みずから知らぬが仏である。竹馬の友・ふ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 わがなさけない、懺悔 きのうは苦心惨憺しながら、だらだらと長い文章を書いた。もちろん、疲労困憊に見舞われた。きわめて独り善がりの文章だったゆえに、読んでくださる人は限られる。もとより、痛しかゆしのところである。それゆえ、本来の掲示板から背くところもまた、大ありだ... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 一コマの「ふるさと物語」 わが人生行路(わが道)は、書き殴りの自分史や自叙伝の一遍さえ残さず、もはや後がない。まだ死んでいるわけではないから、言葉の表記は「残さず」でよく、死んだら「遺さず」に置き換わる。こんなことはどうでもよく、起き立のわが心象には、ふるさと時代の... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 ウグイスとニワトリ、そしてわたし 六月十一日(土曜日)、人様との会話のしようはないのに、両耳に集音機を嵌めてパソコンを起ち上げた。これには唯一、望むところがある。ウグイスの朝鳴き声を聞きたいためである。しかし、聞こえてこない。だからと言って、がっかりも恨みもしない。なぜなら... ひぐらしの記前田静良
ひぐらしの記 きょうも、実のない書き殴り 六月十日(金曜日)、まがうことない梅雨空の夜明けが訪れている。今のところ関東地方の梅雨空は、大過なく梅雨明けへ向かって、きょうをきのうに替えている。しかし、あしたのことはわからない。人の世は、一先は闇の中であり、天災もまた、忘れたころという... ひぐらしの記前田静良