晩秋の一日

 十月二十三日(日曜日)、きのうの起き立の表現を繰り返すと、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば「未明」と、書いた。それゆえにきょうの天気模様は、夜明けてから知ることとなる。きょう一日の天気は、まだわからない。けれど、季節は暑くもなく寒くもなく一年じゅうで、最も心地良い晩秋の候である。確かに季節の恩恵は、わが肌身をすこぶる心地良く潤している。晩秋という言葉のひびきも良く、まさしく好季節の真っただ中にある。
 ところがどっこい、きのうのわが夫婦は、連れ立って住宅地内にただ一つある、S開業医院へ出かけた。普段の妻との外出行動におけるわが役割は、覚束ない歩行の妻にたいする引率・介添え同行である。ところがきのうの場合は互い身、外来患者であった。二人して、診察室に入った。先に、妻が診察を受けた。私は側近の丸椅子に座り、妻の診察の様子を眺め、主治医の診立ての一部始終に聞き耳を立てた。両耳には集音機を嵌めて、なおかつ最大音量にして、先生の言葉を聞き入った。診断や診察のやり取りは、主にもらっている薬効の確認程度だった。最後には、インフルエンザ予防の注射が上腕に打たれた。
 妻に代わり、私は馴染みの先生と向き合った。中年の男性医師は物腰が和らかく、いつも丁寧で優しい診察をしてくださる。後世でなく、生まれつきの高人格なのであろう。それゆえご多分に漏れず、当医院の患者の多くは高齢者である。まさしく、高齢患者にはうってつけの先生である。その確かな証しは切れ目のない、待合室の外来患者数に表れている。わが夫婦にかぎらず高齢の患者には、とてもありがたい先生である。
 ありがたさの一つは、ぶっきらぼうの診察ではなく、笑顔と優しい言葉(会話)の多さである。高齢患者にはこれらの応対こそ、効果覿面の薬効がわりを成している。私の主訴は、長く治りきらない風邪症状だった。きのうの文章にあって鼻炎症状は、ようやく全快と書いた。ところが本音は、いくらか嘘っぱちだった。ほかには、自覚する皮膚の痒みと便秘症状を訴えた。血圧は測定の前に、「血圧は正常です」、と言ってしまった。それゆえ、先生の測定は免れた。けれど、言わずもがなの言葉だったゆえに、わが愚かぶりを恥じた。たぶん、先生も気分を悪くされたはずである。しかし、そのそぶりはなかった。信頼するに足る優しい先生である。診察の最後には妻同様に、インフルエンザ予防の注射を上腕に打っていただいた。わが夫婦の診察を終えて、夫婦異口同音にお礼の言葉を添えて、診察室を後にした。
 こののちは、夫婦それぞれの処方箋をたずさえて、最寄りの行きつけの調剤薬局へ出向いた。予期どおりそれぞれ、たくさんの薬をもらって外へ出た。秋天高く、のどかに晩秋の陽ざしがそそいでいた。わが肩に連れ添う妻にたいし、「こんなに多く薬をもらうようじゃ、もう死んだほうがましだね!」と言った。妻は逆らわず、「そうね!」と言った。なんのために、ヨロヨロ足で、医院へ行ったのだろうか?……。朝日輝く、夜明けが訪れている。