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古閑さん、すっきりしました 

 そうでした。おいらん草でした。子供の頃、花の開いている方を鼻の頭にくっつけて遊んだものでしたが、花開く頃、我が家にも濃いピンク色の花が咲くのですが、いつもその名前を思い出せなくてすっきりしないのです。いつの間にか庭に咲いていた花ですが、繁殖力旺盛で株が大きくなり、茎が長く花が咲くと頭が重くなってみんなうなだれてしまいます。雨でも降ろうものなら、地面に花の房がくっついて見るも無惨になります。
 古閑さんのお庭のおいらん草は、絢爛豪華でまさに花魁(おいらん)のようなたたずまいですね。
 悔しい思いを抱いて帰宅される碁は、私も職場の男性相手に悔しい思いをしたものです。負けると、もう一回、勝ってもまた一回と、やみつきになります。職場の上司で碁の強い人が居て、「相手をして下さい」とお願いしたら、「弱い人とはやらない」と言われて、これも悔しい思いでした。その方は、「覚えたければ、これを読んで勉強しなさい」と囲碁の本をくれました。でも私は読んでも覚えられませんでしたし、勉強をして楽しむ心境にはなれませんでした。勉強嫌いの私でしたが、今は懐かしい想い出です。

間抜けの夏

7月21日(金曜日)、梅雨明け間近というより、すでに心地良い夏の朝の訪れにある。しかしながら何を書こうかと、気分はさ迷っている。それなら書かなければ、気分は一件落着である。確かにそうだけれど、パソコンを起ち上げてしまった。さて、わが買い物の店「大船市場」(鎌倉市)の売り場は、今や夏模様旺盛である。それらの中で最も目につき、かつまた食欲をそそられるものでは、あちこちに出盛りの西瓜の山積みがある。しかし、この頃の西瓜の売り場光景は、子どもの頃の大玉だけから様変わりを呈している。すなわち、大玉、小玉、半切り、さらには四分の一などと様々である。夏の季節にあって西瓜は、わが特等の好物である。ところが私は、プクプクする涎を抑えて、眺めるだけでいや目を瞑(つむ)って、足早に素通りしている。なぜなら、わが懐郷つのる西瓜は、小玉そのほかすでに切れ物や割れ物ではなく大玉である。わが西瓜好きは食感だけのものではなく、夏の風物詩の一端を担っているのである。すると、それを叶えるには、包丁や手つかずの大玉でなければ意味がない。私は買い渋る大玉にこそ未練タラタラであり、小玉や輪切りのものには、買う気も食い気も生じない。竹馬の友のふうちゃん(ふうたろうさん)だけは、このことを知っていた。かつてふうちゃんは、砲丸投げで強いわが腕で抱いてもヨロヨロする、(こんな大玉もあるんだな…)と、思う西瓜を送ってくれた。もちろん、ふるさと産の最高級ブランド「植木西瓜」だった。私はヨロヨロしながら小躍りした。美味しさは抜群、何日がかりで冷蔵庫に入れたであろう。挙句、妻はこう言った。「パパ。西瓜の大玉は、もう買わないでね。冷蔵に入れられないのよ」「そうだね。わかった。もう西瓜自体、買わないよ」。確かに大玉は、わが買い物には難渋する。だからと言って大玉以外の物は、わが好む西瓜の埒外(らちがい)にある。結局、売り場の西瓜は現在、私にとっては意地悪な見世物へと成り下がっている。先日、西瓜はとっくに諦めて、これまた出回り盛んなトウモロコシを、夫婦に合わせて2本買って来た。これまた、夫婦共に大好物であり、加えて私の場合は郷愁まみれとなる代物でもある。子どもの頃の私は、馬小屋の馬や牛が、飼い葉桶の飼い葉をムシャムシャ食うように、トウモロコシを食べ続けていた。トウモロコシのレシピは、二通りに分かれていた。一つは塩茹でトウモロコシであり、一つは焼きトウモロコシであった。どちらかと言えば私は、後者が好きだった。けれどこちらは、焼くのが面倒で数が限られていた。一方前者は、母が大鍋いっぱいにギュウギュウ詰めで何本も茹でた。結局私は、どちらも変わりなく大好きで、ハーモニカを吹くときのように口に真一文字に添えて、粒にかぎらず粒床あたりまで齧り尽くした。ところが、買って来たトウモロコシの食べ方は、夫婦共にそうはいかず、鳩ポッポが豆を拾うように、一粒ひとつぶを恐るおそる口へ運んだ。なぜなら現在、夫婦共に歯の欠損に見舞われて、トウモロコシの食べ方に難渋を強いられているせいである。しかし、トウモロコシは西瓜の大玉とは違って、買い物に不便はなく、次の出番もありそうである。一方、大玉の西瓜は妻の禁を破ったとしても、帰りのタクシーに乗らないかぎりは、わが買い物にはもはや出番はない。西瓜を食べない夏は、間抜けの夏に変わり始めている。大船の街には、「氷旗」も見えなくなった。買い置きのアズキのアイスキャンデーだけでは、やはり間抜けの夏と言えそうである。書かないつもりが書けば、だらだらの長文となった。自戒すべきである。早起き鳥のウグイスが笑っている。

♪古閑さんへメッセージです♪

古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*
たいへん嬉しく思います\(^o^)/
奥様がおっしゃる珍しい濃いピンクのサルスベリは、本当に素晴らしいですね◎
そのほかの花々の名前も教えてくださり、ありがとうございます。勉強になりましたo(^o^)o

ありがとうございます。

 高橋さん、花の感想の投稿ありがとうございます。高橋さんの御祖父母様宅にもダリアやサルスベリがあったのですね。高橋さんの言われる通りサルスベリは濃いピンクと白色があります。我が家のサルスベリの色は一寸珍しいそうです。(妻の言)
 参考までに花の名前を書いておきます。
 上段左から、オイラン草、アルストロメリア。
 下段左から、ダリア、サルスベリ、ダリア、です。

ありがとうございます。

 大沢さん、花の感想の投稿ありがとうございます。大沢さんの言われる通り暑い日が続いていますが花は暑さをものともせず元気にしています。また、花を見て少しでも頑張ろう、という気持ちになってもらえればこんなうれしいことはありません。ありがとうございます。
 今日も地区センターへ行って悔しい思いをしてきました。

♪前田さんへメッセージです♪

前田さん、1日遅れの感想で申し訳ございませんm(_ _)m
『小型電動携帯扇風機』は、「ハンディファン」と言います。
ヘッドホンのようなデザインのものは、「ハンズフリーファン」とか「ネックファン」と呼んでいます。
ケイタイのように充電して使用します。
前田さんがおっしゃる通り、『現代女性のおしゃれの一つ』です。
もう1つ、「スマホショルダーポーチ」も流行っています。
ですが、ぼくには、「ハンディファン」も「スマホショルダーポーチ」も子供っぽく見えてしまい、大人の女のコが使っていると思わず苦笑してしまいます。
やはり、学生までかな、とも思います(笑)。
大人の女のコならば、「ハンディファン」を使うなら、ハイブランドの☆クリスチャンディオールの扇子☆を、「スマホショルダーポーチ」なら、★CHANELの小型ショルダーバッグ★で差をつければよいのに、とか勝手に思っています(笑)。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さんが碁を打って♪ルンルン気分♪になられるように、毎日祈りを捧げています♪♪
ダリアとサルスベリの花の画像の記憶をすっかり忘れていましたが、大沢先生の本日の御投稿から教えていただく形になりましたが、思い出しましたo(^-^)o
幼少年期の祖父母宅には、ダリアもサルスベリもありましたが、ダリアは、こんなに色鮮やかではなく、サルスベリは、ピンク色(白色もありますよね!!)ですが、こんなにボリューム感はありませんでした。
古閑さん邸の御庭の花々の素晴らしさは、『いつも色鮮やかでボリューム感がある!!』ところですね◎◎◎◎◎

ああ、夏だなあ!

 古閑さん、お久しぶりです。悔しくても、碁仲間がおいでなのはうらやましい。 
 ダリア、サルスベリ、あとはわからないけれど、画像をクリックして思わず「夏だなあ」と言葉に出してみる。本当に猛暑にもかかわらず、花々は見事な色に輝いている。
今日も一日、頑張ろう。そんな気持ちが溢れてくる。
古閑さん、有り難うございます。

やはり私は夏が好き

7月20日(木曜日)、やはりまだ、梅雨空の夜明けが訪れている。気象庁が梅雨明け宣言忘れのドジを踏んだと思えていたけれど、逆にわが早とちりのドジだったようである。いくら早いけれどこの時期、ほぼ毎年同じようなことを浮かべている。すなわち、「やはり私は夏が好き」である。まずは、夏の季節で困ることを浮かべている。すると、筆頭の地位に位置するものは暑いことである。おとなの問いに対し、なんだか幼児が答える理由みたいである。後には、それに誘引されるものが続くこととなる。熱中症の危険性が高まる。寝冷えで夏風邪がひきやすくなる。冷房エアコンや扇風機が入り用になり、はたまた頻発するシャワー掛けや、さらには洗濯機のフル回転などで、やたらと光熱費が嵩んでくる。しかしながらこれらは、冬の季節の暖房エアコンや風呂への給湯にかかる光熱費と比べれば、まだ少なくて済むところはある。繁茂する夏草取りには往生を極める。夏痩せ願望は逆太りに遭って、まったく果たせない。最後に持ってきたけれど、生きるための活動(生活)の基本を成す買い物には、途轍もなく難渋を強いられる。浮かぶままに並べてみた。すると、わが夏の季節が好きという理由は、ことごとく打ちのめされそうである。だからそれを防ぐにはおのずから、それらの項目を超える夏の季節特有の利点を浮かべなければならない。浮かぶままの利点を記してみる。もちろん勝負は、好き嫌いの項目の多寡ではない。たとえばこのことだけで、嫌いを打ち負かすことができそうである。すなわち、着衣の軽装、着脱の簡便さである。これらに付随するものでは、夜具の軽さがある。確かに、これらのことだけで、わが夏の季節好きの理由には、十分適(かな)っている。それゆえ、この先の項目は付け足しである。旬の夏野菜三品(トマト、キュウリ、ナス)が美味い。西瓜、かき氷、アイスキャンデーを食べれば老い心は、たちまち童心返りに恵まれる。網戸から入る夏風は、わが身にあまるほどに快い。セミの声には郷愁を掻き立てられる。板張りに仰臥する昼寝は心地良い。木陰の涼み、夕涼み、夕立のあとの涼みなどの快さは、何ものにも替え難い。いずれも自然界から、夏の季節にかぎりたまわる無償のプレゼントである。確かに、夕立に付き添う「雷さん」には恐れるけれど、幸いにもなぜか、鎌倉地方にはそんなに怖いものはやってこない。ところが、ほかの季節と違って夏特有に、とことん恐れるものには、ムカデの茶の間や枕元への闖入(ちんにゅう)がある。妻はヤモリやゴキブリにも形相を変えるけれど、それらはご愛敬で恐れることはない。スズメバチやマムシあるいは青大将の出没がなければ敵は唯一点、ムカデだけである。(あな、恐ろしや!)そのためには用意周到に、ムカデ殺しのスプレーをあちこちに常置している。挙句、わが夏の季節が好きの帰趨には、ムカデの出没ぐあいが大きくかかわっている。ほとほとなさけないけれど、それでもやはり私は、夏の季節が好きである。梅雨空ももはや、最後の悪あがきであと数日であろう。軽装の身には早やてまわしに網戸から、涼しい夏の朝風が吹きつけている。夏暑いのは、耐えるよりしかたがない。やせ我慢と言われても、気にすることはない。

庭の花

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 地区センターまで1キロ、コロナ禍前は歩いていたが、現在は、幸いにも地区センターには駐車場があるので我が最高級スーパーカーを運転して行っている。