間抜けの夏

7月21日(金曜日)、梅雨明け間近というより、すでに心地良い夏の朝の訪れにある。しかしながら何を書こうかと、気分はさ迷っている。それなら書かなければ、気分は一件落着である。確かにそうだけれど、パソコンを起ち上げてしまった。さて、わが買い物の店「大船市場」(鎌倉市)の売り場は、今や夏模様旺盛である。それらの中で最も目につき、かつまた食欲をそそられるものでは、あちこちに出盛りの西瓜の山積みがある。しかし、この頃の西瓜の売り場光景は、子どもの頃の大玉だけから様変わりを呈している。すなわち、大玉、小玉、半切り、さらには四分の一などと様々である。夏の季節にあって西瓜は、わが特等の好物である。ところが私は、プクプクする涎を抑えて、眺めるだけでいや目を瞑(つむ)って、足早に素通りしている。なぜなら、わが懐郷つのる西瓜は、小玉そのほかすでに切れ物や割れ物ではなく大玉である。わが西瓜好きは食感だけのものではなく、夏の風物詩の一端を担っているのである。すると、それを叶えるには、包丁や手つかずの大玉でなければ意味がない。私は買い渋る大玉にこそ未練タラタラであり、小玉や輪切りのものには、買う気も食い気も生じない。竹馬の友のふうちゃん(ふうたろうさん)だけは、このことを知っていた。かつてふうちゃんは、砲丸投げで強いわが腕で抱いてもヨロヨロする、(こんな大玉もあるんだな…)と、思う西瓜を送ってくれた。もちろん、ふるさと産の最高級ブランド「植木西瓜」だった。私はヨロヨロしながら小躍りした。美味しさは抜群、何日がかりで冷蔵庫に入れたであろう。挙句、妻はこう言った。「パパ。西瓜の大玉は、もう買わないでね。冷蔵に入れられないのよ」「そうだね。わかった。もう西瓜自体、買わないよ」。確かに大玉は、わが買い物には難渋する。だからと言って大玉以外の物は、わが好む西瓜の埒外(らちがい)にある。結局、売り場の西瓜は現在、私にとっては意地悪な見世物へと成り下がっている。先日、西瓜はとっくに諦めて、これまた出回り盛んなトウモロコシを、夫婦に合わせて2本買って来た。これまた、夫婦共に大好物であり、加えて私の場合は郷愁まみれとなる代物でもある。子どもの頃の私は、馬小屋の馬や牛が、飼い葉桶の飼い葉をムシャムシャ食うように、トウモロコシを食べ続けていた。トウモロコシのレシピは、二通りに分かれていた。一つは塩茹でトウモロコシであり、一つは焼きトウモロコシであった。どちらかと言えば私は、後者が好きだった。けれどこちらは、焼くのが面倒で数が限られていた。一方前者は、母が大鍋いっぱいにギュウギュウ詰めで何本も茹でた。結局私は、どちらも変わりなく大好きで、ハーモニカを吹くときのように口に真一文字に添えて、粒にかぎらず粒床あたりまで齧り尽くした。ところが、買って来たトウモロコシの食べ方は、夫婦共にそうはいかず、鳩ポッポが豆を拾うように、一粒ひとつぶを恐るおそる口へ運んだ。なぜなら現在、夫婦共に歯の欠損に見舞われて、トウモロコシの食べ方に難渋を強いられているせいである。しかし、トウモロコシは西瓜の大玉とは違って、買い物に不便はなく、次の出番もありそうである。一方、大玉の西瓜は妻の禁を破ったとしても、帰りのタクシーに乗らないかぎりは、わが買い物にはもはや出番はない。西瓜を食べない夏は、間抜けの夏に変わり始めている。大船の街には、「氷旗」も見えなくなった。買い置きのアズキのアイスキャンデーだけでは、やはり間抜けの夏と言えそうである。書かないつもりが書けば、だらだらの長文となった。自戒すべきである。早起き鳥のウグイスが笑っている。