掲示板

大沢久美子撮影

生きる楽しみ

 毎日を生きていく楽しみを見つけることは難しい。たまごさんの投稿を読ませていただいていると、前向きな生き生きとした毎日を作り出されていることが伝わってくる。何事にも前向きで、楽しくなる。どうしてそんなに積極的に生きられるの? と野暮な問いを投げかけたくなる。お会いしたことも無い貴女へのイメージが膨らんで、次の投稿が待ちきれない。今朝は、作曲の楽しさを披露してくださった。またまた私の中でたまごさんは姿を変えていく。大きく大きく膨らんでいくたまごさんの人生、素晴らしいと思いました。

三連休は「大寒波と大雪」

2月22日(土曜日)、夜明け前にある(5:29)。そして、あすの「天皇誕生日」(23日・日曜日)、それに続く「振替休日」(24日・月曜日)へ繋がる、三連休の初日を迎えている。「三連休 大寒波が到来、警報級大雪のおそれ」(tenki.jp)。予報に違わず、大寒波の中の寝起きにある。身体のみならず精神共に震えて、この先、たわいない文章を書く価値は無さそうである。それでも私は、価値ない文章を、継続の途切れを危ぶんで書き始めている。読んでくださる人にはひたすら詫びて、まったく自己都合の文章にすぎない。人間も動物に含めて「動物社会」は、もとより弱肉強食旺盛の社会である。生きることに強い者がいて、生きることに弱い者がいることはしかたがない。しかし、「人間社会」にあって、悪人(悪徳者)が蔓延(はびこ)ることだけは、真っ平御免蒙りたいものである。ところが、現実の人間社会にあっては、悪人の横行跋扈(おうこうばっこ)が絶えない。もし仮に、人間社会が善人だけであれば、人間はどれほど住み良く、かつまた広く地球は、どれほど「円満の球(たま)」であろうか。つくづく、(もったいない、なあ…)と、嘆くところである。人間社会は人の集合体なのに、為政にあってはたった一人の最高権力者の施政や人格の良し悪しで、こうも変わるものかと呆れるばかりである。幸いなるかな! 日本社会ではなく、限られた他国から伝えられてくる「つきまくる悪態現象」である。もちろん施政に限らず世の中には、悪徳者の為す大小あまたの詐欺、強盗、殺戮(さつりく)、傷害、その他の事件は、日常茶飯事に絶えることはない。もっと腑に落ちないことには、進化を続ける文明社会の現代の世にあってなぜか? 私にはこの手の事件が累増(るいぞう)しているように思えているからである。すると、これらの元凶は、富を分ける格差社会のせいなのか、国境を跨(また)ぐグローバル社会のせいなのか、情報の入手を容易(たやす)くするデジタル(SNS)社会のせいなのか。もうやめよう。なぜなら、寒気に震えてまでして、究(きわ)めることでもなさそうである。いや、わが老耄(ろうもう)の知恵の及ぶところではない、犯人捜しだからである。わが柄でもなく、そして書くまでもないことを書いたのは、寒気を言い訳にして、文章の絶えを恐れからである。大寒波の訪れは夜明けて、寒空にあって胸の透く日本晴れとのコラボ(協奏)を演じている。

作曲アプリ

スマホに作曲できるアプリが入っているので、最近、ちょこちょこ作っています。
楽譜が読めない私でも、このアプリなら適当に思いついたメロディを弾いてみると、それっぽく聴こえるので、自分なりには作る喜びがあります。
もちろん、達人はものすごい曲を作るので、そういう人と比較してしまうと全くダメダメなのですが、初心者なりにできた喜びというものがあります。
高橋さん始め、友人に聴いてもらう喜びもあります。
少しでも上達して、いずれは満足のいく一曲を作曲したいものです。

「カンフル注射」と「慌て者の春」

2月21日(金曜日)。「春眠暁を覚えず」。ネタ無しをこの成句にすがるには、まだ早い。慌て者の春が来たのだろうか? 朝寝坊をこうむり、時間に急かされて文章が書けない。きょうはこんな言い訳をして、凡愚のわが身を守っている。きわめて身勝手で、頓珍漢な言い訳である。きのうは迷いかつ萎えていたわが心象に、名医・大沢さまから効果覿面のカンフル注射が打たれて、寸でのところで以降の文章断ちを免れた。いや、カンフル注射が打たれる前は、死人同然の状態だった。だから、確かな生存(生き返り)の証しには無傷で、できれば流暢(りゅうちょう)な文章を書けばいいのにそれは叶わず、心臓の鼓動だけにありつく、体(てい)たらくの文章を書いている。しかしながら、文章が拙(まず)いことはそっちのけにして、寝起きにありついていることには快哉(かいさい)をおぼえている。すなわち、この文章は、ただいたずらに、生きている証しだけの文章である。「ひぐらしの記」の誕生にあって大沢さまは、「前田さん。何でもいいから書いてください」と言われた。この言葉に甘えて私は、身の程知らずに三日坊主を恐れて書いてみた。ところが以後、果てしなく長く続いてきたけれど、文章の体はいまだにヨチヨチ歩きである。この文章はまさしく、その証しでもある。きょうは朝早く、妻を伴って外出の支度が待っている。行き先は、神奈川県横須賀市内にある「眼鏡市場」である。用件は、先日購入済みの妻のメガネの出来上がりの報を得て、その受け取りである。大沢さまのカンフル注射は、文章の出来は悪いけれど、願ってもない継続を可能にしたのである。まるで気狂いみたいな文章だけれど、心情は確かな御礼の文章である。慌て者の春は、それなりに清々しい春の息吹ただよう、日本晴れを恵んでいる。わが心身は、無償のカンフル注射の効き目で、潤(うるお)い華(はな)やいでいる。

現代文藝社編集室だより

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流星群だより第47号を発行いたしました。

文章が書ける幸せ

 ひぐらしの記は、「 心に浮かんでは消えてゆくたわいもないことを、とりとめもなく書きつける」記であってもいいのです。毎日、目の覚めるような素晴らしい文章を姿勢を正して読むのは辛いものがあります。たわいも無い文章を書くことも難しいと思いますが、「ああ、こんな日常を過ごしているんだ」と胸をなで下ろし、共感する、そこには「今日も元気に生きるぞ」という力がもらえます。お隣さん、親しい人との何気ないふれあい、そんな気軽な気持ちで書かれた文章にも味わいが生まれてきます。
 前田さん、つぶやき、なげき、怠け心など、気軽に伝えてください。読者はそんな前田さんの日暮らしの文章を待っています。

起き立ての心境

2月20日(木曜日)。寒気がぶり返している。「春の音」を足踏みして、自然界の見え見えの悪戯(いたずら)と言えそうである。いや、春の音を悦ぶ人間界に対する、自然界の僻みや妬みなのかもしれない。一方、私もなさけない。なぜなら、こんな様にならない心境を携えて起き出している。寝起きにあって、文章を書かなくて済めば極楽気分である。ところが一方で、寂しい気分でもある。だから、いまだ二者択一を決めかねて、私は常に迷いの気分を同居させて起き出している。しかし、正直な気持ちではもう書かずに、安楽な気分に浸りたい思いのほうが勝っている。だけど、まだ迷っている。大沢さまから授けられているご好意を無下(むげ)にすることには、もったいない気分が横溢しているからである。このことはすでに一度、書いた記憶がある。すなわちそれは、途絶えていたわが生涯学習のヨロヨロの再始動のことである。私は就寝中の枕元には地震や停電に備えて、大慌てで「ヤマダ電気」から買って来た、懐中電灯を置いている。これに加わるものでは、スマホ、電子辞書、「難解語便覧」(三省堂)、はたまた市販の薬剤(風邪薬と便秘薬)などがある。どれもが、わが刹那(せつな)の命を助ける、「生存備品」と自認するものである。二つの辞書類だけは、それには役立たずと思うところはある。だからと言って、付け足しとも言えない。なぜなら共に、わが生存における「生き甲斐づくり」の一端を担っている。わが心中には常に、(もう書かない、もう書けない)と、声なき声が蠢(うごめ)いている。だから、きょうも書けそうにない心境で起き出している。ところが、こんな様にならない文章を書いている。それはやはり、大沢さまから授かっている、わが生涯学習の実践の場を失くすことを恐れているためである。私は、大沢さまのご好意に食いつく「ダボハゼ」さながらである。子どもの頃の私は、春になればふるさとの「内田川」で釣り糸を垂れて、「ゴーリキやシーツキ」(川魚のハゼ類)などを嬉々(きき)として釣り上げていた。翻って私はなけなしの脳髄に怯えながら、大沢さまのご好意に食いつき釣り上げられている。だけど、大沢さまのこの好意が無ければ、わが定年後の世界は闇の中であったのである。春の音の足踏みはしばし止んで、春霞の夜明けが訪れている。こんな、起き立て、出まかせ、相同居する文章など、書かないほうが身のためだったのかもしれない。文章書きは、わが凡愚の脳髄には負えない。挙句、常に出鱈目(でたらめ)文章である。

心境を吐露する、メール文

2月19日(水曜日)。寝床に寝そべり、スマホ片手に書いている(2時37分)。こんなずぼらな行為や気分ではもとより、書かないほうがましである。恥を晒すことに併せて、掲示板を汚すことにはほとほと忍びないものがある。それを承知で書いているのは、こんな文章でも書かないと、この先、文章は沙汰止みになる。きのうはずる休みをして、継続をすがる惰性書きを断った。すると、おのずからわが文章の継続はあり得ない。だから、もとより文章とは言えないこんなことを書かいて、沙汰止みの寸止めを願っている。「ひぐらしの記」にあらず、苦肉のメール文にすぎない。わが身、哀れである。

大沢先生、ありがとうございます。

大沢先生の人生の一端のお話しを聴かせていただき、ありがとうございました。
何のために生きているのか、いかに生きるべきかについては、私ももがき苦しんでおりました。
人生の先達の方の思いを聴かせていただき、私の人生も少しは肯定できるような気がいたします。
感謝するのは、私のほうです。
ありがとうございました。

素晴らしい朝

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   今朝の掲示板は皆さんの熱き心が伝わってきて私の心も燃えています。たまごさんの塚本晋也監督の「HAZE」に対する深い洞察、高橋さんの丁寧な感想、古閑さんのお庭の近況。どれもその思いが伝わってきます。
大岡昇平「野火」を読んだのは二十代の頃でしたから、そのあらすじすら思い出せませんが、手元の書棚の埃をかぶった文庫本を取り出すと、一枚の葉書が挟んでありました。48・7・16と消印が押されています。裏面には「第248回日芸の集い」とあり、その当時私が所属していた「日本文芸同人会」の代表小林茂氏からの案内状でした。会場は赤羽会館。読書会大岡昇平作「野火」(新潮文庫本九十円)とあるので、このときに購入して読んだのでしょう。日本文芸同好会は同人誌「脚光」を発行していた。
本の表紙の裏に48・7/22読書会、「人間は生きる為に生まれているのであることを再認識されられた。死に直面しても、生に対する万分の一の可能性を期待するのである」と私の手書きが記されている。
何のために生きているのか、いかに生きるべきかもがき苦しんでいた私の当時が思い起こされました。小説とはと問い続け、答えを探し求め続けていたとき、田端信先生に巡り会い、「現代文藝社」を立ち上げ、現在に至っています。
たまごさんのお陰で、思いがけず「現代文藝社」の原点に立ち戻った今、「野火」を再び読んでみようとおもいます。たまごさんに感謝します。