掲示板

坂本弘司撮影

私の庭

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いつの間にやら花咲いてしまい、夕方五時に気がついた。
待ちに待っていたのに、朝見たときはまだつぼみが堅い
ような気がして、うっかり見過ごしてしまった。十時頃に
開花していたのだろう。遅かりしである。受粉がどうなる
か分からないけれど、とにかく遅ればせながら作業を終えた。

三つ巴の友愛がもたらした僥倖

神様は、初詣、賽銭、あるいは御百度を踏んで、いくらお参りしたり、願ったりしても、爪の垢ほどのご利益(りやく)さえ恵んでくれない。これに比べて現人神(あらひとがみ)の友人は、祈ったり、強請(ねだ)ったりなどしなくても、わが知らぬところでさりげなく、無償でとんでもないご利益(僥倖)をもたらしていた。メールを開けて玉手箱、私はびっくり仰天した。「前田様 今日、丸山宏子さんからお電話をいただき、ふうたろうさんが前田さんの今日の掲示板の投稿を宏子さんに電話で読んであげたそうです。とても感激されていました。親友は良いものですね。私まで嬉しくなりました。大沢」。お仕着せの友情など、なしのつぶてのままのふうちゃんにたいして、私は真似ることなく大慌てで、「切ない恋のキュービッド、ありがとう」と、送信メールをかけた。きょう(六月十六日・木曜日)の夜明けにあっては、きのうのほろ甘く、かつほろ苦い涙雨は上がり、うっすらと朝日が射し始めている。起き立のわが気分はすこぶる爽快である。しかし、きのうの短い文に味を占めて、だらだらとこの先を書く気にはなれない。幼い子ころから育んできた三つ巴の友愛がもたらした僥倖に、私はしばし浸りきりたいのである。爽やかな余韻は、さらにこの先、わが命尽きるまでエンドレスになりそうである。そうであればと私は、とりあえず両掌(りょうて)を合わせて、パチパチと大音を立てている。

ようやく叶えた、短い文

六月十五日(水曜日)、二度寝にありつけず、仕方なく起き出してきた。「丸山宏子さん」は掲示板へのご投稿はないけれど、『流星群』では親しい投稿仲間である。宏子さんの旧姓は「松本」である。渕上先生の名簿帳の点呼にあっては、わが名・前田の次に、「松本さん」、と読まれた。ドキドキした。たったこれだけで、わが人生における初めての淡い恋心が芽生えた。実りはなかった。だけど、しがないわが人生を、風船みたいにふくらましてくれた。気狂いなく、ようやく短い文章を叶えた。寝床へとんぼ返りをする。スヤスヤと、安眠に就けるのか。それとも、いっそう悶々とするのか。それはわからない。雨が降っている。

火焚小屋

蒸し返しになるが、原邑には、年寄たちが孫の子守を兼ね、雑談するために集まる「火焚小屋」と、呼ばれた場所があった。原邑の子供たちは、ここから、世に、デビューし、内田小学校に通うようになった。
 火焚小屋の冬場は、蒔きを焚き、年寄たちは、火を囲み雑談に耽り、孫たちは、年上者が、いろいろの遊びを教えながら、面倒をみていた。子供たは、上級生から、原邑の仕来りを教えられた。
 若い女性が原邑を通るのを見つけた時は、「良かおなご」と声を掛けて、石を投げろ・・・とか、上級生が片手をあげ「ドゴビン」声をかけたら、一目散に上級生の前に並べ、一番最後に並んだ者は「ビンタ」・・・とか、ヘビを見つけたら、尻尾の先を捕まえて振り回せ・・・とか、数限りなく、教えてもらったが、勉強に関するものは何も教わらなかった。だからなのだろうか。学年一の喧嘩は、いつも、原邑から出たが、学年一勉強は全く・・・

切ない思い出の「わっこ(アマガエル)物語」

六月十四日(火曜日)、梅雨の合間らしい、今にも降り出しそうな雨空の夜明けを迎えている。起き立の私は、きょうこそ短い文章で閉じたい思いに駆られている。しかしながらいつもの殴り書きゆえに、この決意の結末は、みずから知らぬが仏である。竹馬の友・ふうちゃん(ふうたろうさん)は、ふるさと言葉で言えば「にがしろ」(元気者)であり、一方の私は、きわめて気の小さい、すなわち臆病者である。どうしようもない生来の性質の違いとはいえ、子ども時代にかぎらず後々にいたるまでこれには、私は大損である。なぜならこの違いで、互いの子どもの頃にかぎってもふうちゃんは、子どもらしい数々の愉快なエピソード(思い出)をたくさん持っている。その一つをわがたっての願いを叶えて、ふうちゃんはきのうの掲示板に綴ってくれた。言い出しっぺの私は、もちろん感謝感激だった。その証しには、私は短く「恩に着る」と記した。臆病者の私は、他家(よそ)の西瓜泥棒、柿盗み、梨盗りさえの記憶もない。柿と梨の場合は、台風が落とすのを庭先でじっとかがみ待って、落ちるやいなや脱兎の如く走り、拾って持ち帰った記憶だけである。わが子ども時代にあって、子どもらしい愉快な思い出がないのは、いまとなってはつくづく大損である。さらには、にがしろ(元気者)のふうちゃんと比べて、臆病者のわが性質は、子ども時代のみならず、わが人生行路における「後祟り」さえ成している。そのため私は、わが子どものときからこんにちにいたるまで、ふうちゃんにたいしては羨望頻(せんぼうしき)りである。繰り返せば、わが人生行路における子ども時代にあって、私は愉快な思い出を成さずじまいであった。子ども時代の思い出が少ないのは、今となってはかえすがえす残念無念である。先週のNHKテレビ番組『ダーウインが来た』には、アマガエルの生き様を伝える特集が組まれていた。普段の私は、犬の牙、猫の目、さらには虫けらの虫刺されによる痒みなどが怖くて、猛獣はもとより生き物の番組は観る気がしない。おのずからこの番組も敬遠しがちで、これまでほとんど観ずに、つけっぱなしの素通りを余儀なくしていた。ときたまちらっと観たのは、魚介類、あるいは猛禽類ではなく小鳥の飛び交う場面ぐらいだった。ところが、アマガエルのこの日にかぎり、始めから終わりまで観てしまい、挙句、いたずらをしでかした思い出にふけっていた。私だけではなく隣近所の遊び仲間たちは、アマガエルを掴まえて手の平に持つと、それぞれが家から麦わら(ストロー)を持ち出してきた。そしてこののち、アマガエルの尻の穴にストローを差し込み、風呂沸かしの竹棒さながらにフーフーと吹き合った。小柄なアマガエルのからだは、たちまち風船の如く膨れ上がった。確かに、アマガエルにはつらい仕打ちだった。けれど、子どもたちには他愛無(たわいな)い手近の遊びだったのである。その証拠にこれは、わがわずかな愉快な思い出の一つを成している。いまさら、詫びや懺悔のしようはないけれど、このときに私は、番組で観ていたアマガエルにたいし、償いまじりの憐憫の情をたずさえていた。アマガエルだけではなくカエルにたいしは、子どもたちは「わっこ」と、呼んでいた。瘡(かさ)のようなカサカサの恐ろしい風貌のガマ(ヒキガエル)には、風貌そのままに「かさわっこ」と、呼んでいた。ところが怖くて、これにはストローは吹けなかった。案外、にがしろのふうちゃんは、恐れず吹いていたのかもしれない。聞いてみたい気もするけれど、竹馬の友とて二日続きのおねだりはできない。きょうもまた、意図した短い文章は叶えられなかった。夜明けの雨空は、風まじりの小雨を落とし始めている。

私の畑

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ベランダの私の畑の今朝の収穫です。しそ、春菊、小カブ、
ニラ、サニーレタス、インゲン、ナス、ピーマン、二十日大根
などです。二十日大根と小カブは二回目で、間引きが出来なか
ったので実ができませんでした。それに虫に葉っぱを食べられ、
間引きの意欲が減退したのです。散々です。
 トマトが色づきました。中玉とあったのでミニトマトとは
思いも寄らなかったのですが、沢山の房がついています。
楽しみです。

ふうたろうさんへ

私は毎回流星群に掲載のふうたろうさんの独創的な作品の虜である。
独創的で人間の暮らしの機微をみごとに捉えられているからである。
そして、思わぬ発見があったり、クスリと笑いがこみあげたり、人情味
溢れているのもいい。そんなふうたろうさんの作品との出会いに卒業など
思いも寄らないことである。まだまだ書いてくださいね。読者に心の潤い
を与えてくださいね。お願いします。
 ところで次回の作品も心待ちにしています。

ふうちゃん、ありがとう

まさしく竹馬の友の妙、恩に着る。ふうちゃんは、にがしろ「元気者」だった。だから、たくさんの楽しく愉快なエピソードを持っている。それを引き出したかった。ふうちゃんの今日の投稿文は、それらのなかのひとこまです。

(無題)

「国語はだめ」と、我を評価した先生は正しかったのだ。流星群、掲示板に書かれた人様の作品を読むたびに、落ち込んでいき・・・もう、「卒業しよう」と決めていたのに・・・
 ところが、12日「ふるさと物語」に、「ふうちゃんにバトンタッチして、この文章は結文とする」と、我の決心に逆らう「しいちゃん」の投稿、でも、我の生まれ育った熊本県鹿本郡内田村大字上内田小字原集落は、バス通りから山道を登った高台にあった。
 我々の小学校時代は、集団登校で、竹林・雑木林の中の細い道を2キロ程下り、バス通りに出て学校に向っていると、後方から「木炭バス」が、のろのろと追い越した。我々はバスを追いかけ「排気ガス」のマフラを手で塞いだ・・・バスは止まった。すると運転手が「こら・・・」とバスから降りて来た。我々は一目散に逃げた。それは、我が原邑のガキどもの楽しみの1つでもあった。

わがなさけない、懺悔

きのうは苦心惨憺しながら、だらだらと長い文章を書いた。もちろん、疲労困憊に見舞われた。きわめて独り善がりの文章だったゆえに、読んでくださる人は限られる。もとより、痛しかゆしのところである。それゆえ、本来の掲示板から背くところもまた、大ありだった。恥じて、きょう(六月十三日・月曜日)は、短く何を書こうか? と、思う。ところが、何らのネタなく、起き立のわが心は悩んでいる。文章とは言えないこんなものでも、唯一、心が満たされていることがある。それは、大沢さまから賜った「前田さん、なんでもいいから書いてください」という、お言葉である。ところが、私は応えきれていない。いや、かなり曲解し、大沢さまの真意とは、大外れである。顧みれば、大沢さまの「なんでもいいから書いてください」というお言葉は、今やはるかに遠いわが児童時代の渕上先生のお言葉へ遡(さかのぼ)る。大沢さまのお言葉同様に、当時の渕上先生のサゼスチョン(指図、指示、示唆)もまた、易しそうできわめて困難だった。うら若く見目好い(美しい)、ご担任の渕上先生(現在、恩師、平様)は、わが小学校一年生、そして持ち上がりの二年生にあって、よく「綴り方教室」という、授業をされた。まさしく、わが人生行路における、文章書きの手始めであった。そのときは、ちょっぴり恨みこそすれ、こうは思わなかった。しかし、顧みれば「綴り方教室」は、わが文章書きの確かなありがたい原点だったのである。渕上先生の指図にあっては、あらかじめ題が決められているものと、気ままになんでもいいから自由に書いていいものとに、分かれていた。ところが、私には後者すなわち自由題こそ厄介で、ほとほと困り果てていた。思えばこのときの私は、創作文が書けないという現在のなさけない態様を、さらけ出していたのである。私は途方に暮れて、鉛筆の文字どおりの鉛の芯を舐め舐めしながら、白紙の原稿用紙にじっと目を落としたり、廊下や窓の外の運動場をちょろちょろと、眺めていた。「何でも書いていいという自由題」、また「なんでもいいから書いてください」という、両様の優しい言葉とは裏腹に、私は常に文章書きに手を焼いている。きょうは、尻切れトンボのままに、意識してここで書き止めである。確かに、きのうよりわずかには短いけれど、またしても書き殴りの文章は、だらだらと長くなってしまった。窓の外のアジサイは、日に日に彩(いろどり)を変えては、色濃くなり始めている。以下は、アジサイにちなんでの付け足し文である。渕上先生から「みなさん、きょうのお題は『アジサイ』です」と言われても、このときの私には、すらすらと書けるはずもなかった。なぜなら私が、アジサイが「この世の花」と知ったのは、ふるさとを離れて関東地方に住むようになってからである。当時の私は、校舎周りや、内田村内(うちだむらうち)にあって、アジサイを見たことなど、まったくなかったのである。いや私は、アジサイはもちろんのこと、花などにはまったくの無関心を決め込み、もっぱら手当たりしだいに野イチゴや野辺の生り物の食いしん坊に明け暮れていたのである。